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コクリコ坂から落ちて死にたい

2011.08.22(02:38)

犬はいつも足元にいて犬はいつも足元にいて
(2009/11/07)
大森兄弟

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ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ 他

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黄泥街黄泥街
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残雪

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 8月20日(土)

 朝はやく起きるようにしていたからいつもよりはやく起きることができた。
 世界中の文学を読まなくちゃと思って図書館で借りて中国の残雪(ツァンシュエ)「黄泥街」を読みはじめた。いまのところ、ものが腐ったとか、蛆がわいたとか、猫とか犬とかにんげんとかが狂ったとか、そういうことしか書いていない。ち、ちゅうごく…。
 早稲田松竹までいってゴダール「映画史特別編 選ばれた瞬間」、「ソシアリスム」を見た。「映画史特別編」はもともと4時間30分くらいある映画をゴダールが再編集したもので、わたしは「映画史」本編も見たことがあるけれど、全8章中全4章ぶんくらいは寝ていたのでそれとくらべてはなんとも言えない。「映画史特別編」というのはわりにわかりやすい映画だと思う。ゴダールの映画には「そういうものだ」と思えないなにかがあってどうもよくわからないけれど、「映画史特別編」というのはそのコンセプトからして「そういうものか」というあきらめの気持ちがわいてくるかららくだと思う。7章、8章あたりのもりあがりがここちいいけれど、本編の8章にあった感動は薄れていたように思う。「長さ」というのはいがいに大事なんだと思う。
「ソシアリスム」を見ると、海と空の青、デッキの白は尋常じゃない光度で輝き、ノイズが耳につきささってきてはなれない。見たのは3回めだけれど内容はあいかわらずぜんぜんわからない。水彩画を書いている男の子を後ろから撮ったシーンは画面そのものにたぶん絵の具が塗られていて、ありえない光りかたをしていてとてもとても好きだ。
 たまには新人のひとの文学も読もうかなと思って、駅前のベックスで大森兄弟の文藝賞受賞作「犬はいつも足元にいて」を読んだ。思っていたよりもずっとおもしろかった。まるで石橋をたたいて歩いているような小説だった。大森兄弟の文章はとてもじょうずだと思う。じょうずだとしか言いようがないほどに、じょうずだと思う。


 朝の犬の散歩にサダが来る、それはもうほとんど習慣になっていたけど、サダは毎朝、それが偶然であるかのように振る舞っていた。
 随分遠くから僕の存在に気づいているはずなのに、いつもすれ違いざまになってやっと今気づいた、というふうに驚いて見せる。続いて額の汗をぬぐって「ここで一休みするとするかぁ」とお決まりの台詞。デジタルウォッチの小さなボタンを押して、宙をにらみ「タイムがなぁ」と困ったような顔で首をひねる。ストレッチの真似事の後、僕と並んでゆっくりと歩き出す。
 これを演技だと言い切ってしまうはっきりとした証拠はなかった。



 サダのしている定例的な動作は現在系で書かれている。そういった規則をつくって書いていればらくだろう。「他者について強い意志を表明する言葉、言いかえれば、読んでいるひとに比較的強い衝撃をあたえる言葉を主人公がしゃべるときは改行のあとひとこと言いきりのかたちで書く」とか、たとえばそういう規則をつくって書いていればらくだろう。そのようなぶれない文章が、終盤のもりあがるところで「僕」のこころの揺れとともに乱れはじめていくというのも規則なのかな。
 

 僕は電話機を見下ろした。いやがらせの無言電話だ。間違いない。それはいいとして、家の電話機は外から電話がかかってくると、着信番号が表示される。相手は非通知設定にしていなかったから、呼び出しのベルと一緒に、番号がディスプレイに点滅していた。どうやら犯人は世間知らずで間抜けらしい。


「どうやら犯人は世間知らずで間抜けらしい。」という文章をどういうつもりで書いたのか、ということに大森兄弟の存在を賭けたいと思う。この引用だけじゃわからないけれど、「僕」はこの時点で犯人がわかっている。だから、この感想は「僕」のものではありえない。こんな感想を抱くにんげんなんて存在しないとわたしは思う。一人称というのはとても奇妙なもので、あたかも「主人公が思ったこと」と書かれていることは実際に「主人公が思ったこと」でもなんでもないと思う。たとえば「いやがらせの無言電話だ。」なんて実際にリアルに思うにんげんはいないはずだ。だから一人称で書かれている「主人公が思ったこと」というのは「『主人公が思ったこと』を(作者が)描写したこと」にすぎないと思う。実際に「思ったこと」を書こうとすると、ジョイスやベケットに近づいていくと思うけれど、そうするとどんどんまっとうに読むに耐えない文章になっていく。リアルに近づければ近づくほど、それを読むことが不可能になっていく。へんな話だと思う。「どうやら犯人は世間知らずで間抜けらしい。」という文章は作者が読者にあたえている小品だとわたしは思う。そして、この「小品」が作者にとってどういうものでありえるんだろうかとわたしは思う。
 下高井戸シネマでゴダール「右側に気をつけろ」を見た。前半はずいぶん笑った。窓から空や海辺をうつしたショットがきれいでぞくっときた。
 帰りの電車のなかで村上春樹「羊をめぐる冒険」を読みおえた。この終わりかたについて、わたしはあんまりだと思う。なにを書いたとしても「僕」とそれにかかわるかなしみを癒すことができないようなはりつめた空気があるように思う。それはきっと、「僕」が抱いている感情が「かなしみ」とかつて呼ばれていたものとはまったくべつのものになってしまっているからだと思う。それを書くことはできないし、村上春樹はもうそうとうにあきらめてんじゃないんだろうかとすら思えた。もう春樹はこういう終わりかたにずっと耐えられなかったんだろうと思うと、「ねじまき鳥クロニクル」のすばらしさを回想としてひしひしと思わざるをえなくて、それがものがなしい。


 8月21日(日)

 お昼すぎにおきて、残雪「黄泥街」を読みおえた。うすうすわかっていたけれど、ずっときたない話が続いて終わった。ひとびとじたいが腐っていって、まるで言葉までもが腐って、ごきぶりやねずみやなめくじやうじや糞尿と区別がつかなかった。小説じたいが腐って、いやなにおいがしていた。おもしろかった。
 川上未映子「ヘヴン」を読みはじめた。むねきゅんだった。


 僕がなにがわかったのかときくと、内緒、と答えて立ちあがり、それから大きく口をあけてあくびをひとつした。口のなかの赤さのぜんぶが見えたような気がして、僕は思わず目をそらした。

 コジマの目は赤くなっていて、その呼吸にあわせて、鼻の穴からまるまった鼻水のさきがでたり引っこんだりしているのが見えた。


 たんじゅんに、小説のすばらしさはなにを描きたいのかの欲求によるんじゃないかと思う。文章で現在系が多用されているか、過去形が多用されているか、とか、そういう見かけのこととは関係なく、たとえば大森兄弟の小説には「時間」というものがほとんど流れていない。「時間」が流れていない作品というのは「童話」とか「昔話」とか呼ばれたりしているんだと思う。小説にはもとより「時間」なんて流れていない。「時間」をそのなかに組みこみたいのならなにがどうなっていったのかを「現在系」で書かなくてはいけない。「いま、その場所で起こっていること」のなかでなにを選択して描けるのか、たんじゅんだけれど、それがむずかしい。「口のなかの赤さのぜんぶが見えたような気がして、僕は思わず目をそらした。」とか「呼吸にあわせて、鼻の穴からまるまった鼻水のさきがでたり引っこんだりしているのが見えた。」とか、ものごとの細部をゆがめるように肥大させていかなければ書けないこれらの描写を、わたしは彼女の描写への意志だと思う。そして、その意志だけが小説のなかの時間と実存をつくりあげていくんだろうと信じたいとときどき思う。
 夜まで眠って、ひとりでぺたぺた歩いてさいたま新都心のMOVIXで宮崎吾朗「コクリコ坂から」を見た。なんら表現的にあたらしいものを生みだそうとしていないように見える非意志、絶望的にたりない音楽センス、そして回想シーンの使いかたのへたくそっぷりとむだっぷりとテンポのくずしっぷり、おおむね批難したいと思うのはうしろのふたつだけれど、そういうものがどうでもよくなるほどむねきゅんだし、むねきゅんというのはそれだけですべてのだめだを無効にするだろう。山下公園を歩いているときのふたりのむねきゅん具合はどうだろう。
「女の子の告白」ということにどれほどの重みをかけられるんだろうかと思う。そういうことにくらべたらわたしはきっと羊をめぐる冒険にすらでかける気力を失うだろうと思う。
 わたしはこれを見て死にたくなった。なまはんかな気持ちで見てはいけなかった。生を賭して見なくてはいけない映画だった。青春時代にもしかしたら得られたかもしれないかずかずのうつくしいものたちを得られないまま大人になり、1日中コンピュータの画面とにらめっこし、休日にはだれともしゃべらないで本を読み映画館にいき、恋人がいるどころか友達もろくいない、そんなおまえに生きている価値なんてあるの? この映画はわたしにたいする問いかけだ。おもわず生きていてすみませんでした、明日すぐ死にますごめんなさいと言いたくなって、新都心をぶらぶらと歩いた。暗く、橙色の光がときどき浮かび、遠い高いマンションが霧雨でけむっていた。明日すぐ死にますごめんなさいと言いたかった。




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