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「世界」のほとりであなたに渡したい「文書」が僕にはある

2011.08.31(21:42)

定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)
(2001/10)
吉本 隆明

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 8月28日(日)

 起きて、高田馬場のエクセシオールカフェで小説を書いて、それから早稲田松竹で吉田喜重「鏡の女たち」を見たけれど、画面にうつっていたあらゆるものに興味がどうしてもわかなくて、耐えきれなくなって30分ででてきた。
 このままではいけないと思って渋谷までいってイメージフォーラムでイエジー・スコリモフスキ「エッセンシャル・キリング」を見た。ヴィンセント・ギャロが蟻を食べたり栄養ほしさに子持ちの女のひとのおっぱいをちうちう吸ったりする映画だった。たとえばこの映画の終わりかただけれど、監督はどうしてこういう終わりかたにしよう、と思うことができて、そして監督のまわりのひとは「こういう終わりかたでよしとしよう」とどうして思うことができたんだろう。たとえばそれはハッピーエンドかアンハッピーエンドかと考えさせることすらさせていない。物語が終わったという感覚をわたしがえられなかったのだとしたら、それはこの終わりかたが失敗しているんじゃなくて、最初から物語がなかったからだと思う。そしてわたしはいつもありもしない物語ばかりを追いもとめてそれに「終わりかた」をくっつけては「1本の映画を見おわった」という感想を抱いている。くだらないなあと思う。
 ヴェローチェで小説を書いて帰った。


 8月29日(月)

 月曜日だった。とくになにもなかった。10時まで残業をした。ブコウスキー「町でいちばんの美女」を読んで眠った。


 8月30日(火)

 火曜日だった。とくになにもなかった。8時30分まで残業した。ブコウスキー「町でいちばんの美女」を読んだ。禁煙をはじめた。眠るまえに中尾太一をすこしだけ読んだけれど、彼は「数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集」をどうやって書いたんだろう。


「世界」のほとりであなたに渡したい「文書」が僕にはある
僕がもう少しだけ起きていられるのなら、あなたも赤い夕焼けに浮かんだ公衆電話からやや冷たくなって降りてくると思うから
僕はもう、少しだけ目が醒めたまま、離別という文字でつくった最後の蛍(ふたり)になって、山陰本線浜坂(おとうさん)のかなしい線路を泳いでいる



 実際にはこの3行は3行で書かれている。そのためにこの本はばかみたいに縦長だ。中尾太一はパソコンじゃなくて長い紙にこの詩行を書いていったのかもしれない、でもわたしは、そういうことでなにかが達成できることを信じないというありかたを信じている。



 8月31日(水)

 水曜日だった。禁煙2日めだった。5時30分くらいにそそくさと帰った。吉本隆明「言語にとって美とはなにか」を読んでいるけれど、「第Ⅲ部 劇」のはいりが感動的ですらあった。


 詩の表出としていちばん高度な抒情詩では、人間のこころのうちの世界のうごきをえがくことができるようになった。物語の表出では、複数の登場人物の関係と動きを語ることができるようになった。劇においては、登場人物の関係と動きは語られるのではなく、あたかもみずから語り、みずから動き、みずから関係することができるかのような言語の表出ができるようになった。

 演劇とは、劇的な言語帯にはいってくる日記物語の言語と、説話物語の言語とを、歌舞や所作や道具や舞台に(舞台は境界であるが)転化したところの言語としての劇である。


 
 CKさんがきたので話して、CKさんが帰って、それからポメラで小説を書こうと思ったけれど電源がはいらなかった。「魂が抜かれた!」と思ったけれど気のせいかもしれなくて、リセットボタンを押したらまたつくようになった。ポメラがこわれちゃうかもしれない。パソコンさんも調子がわるい。うにゃー。




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