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美しかったはずの関係をみにくさで覆ってばかりのわたしの関係のありかた

2011.09.05(02:52)

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 9月1日(木)

 ※ 小川勝己「眩暈を愛して夢を見よ」についてネタバレあり

 会社にいった。
「台風がくるからはやくかえってね!」と言われたけれどべつにこなかった。禁煙3日めだった。もうここまでくればわたしは禁煙魔神と名のってもよかろう。
 小川勝己「眩暈を愛して夢を見よ」とひさしぶりに読みはじめた。ほんとうに痛々しい小説だと思う。柏木美南という女のひとのあまりの痛々しさにわたしはうまく耐えることができない。救いがあるとしたら「わたしはすくなくとも柏木美南よりも愚かではない」ということだけれど、でも、「わたしがだれかより愚かではない」ということはほんとうにほんとうに救いになるんだろうか。柏木美南はあまりにもだめなにんげんで、自分を表と裏ふたつのやりかたで愛してくれる、求めてくれる「推理小説」を書いた。この本のなかで展開されているミステリーは柏木美南の夢で、彼女には圧倒的に才能がたりないから、それも不完全で、夢のなかで自身が構築した人物たちに「これは柏木美南が見ている夢なんだよ」と見破られ、夢は崩壊していく。夢見られた「推理小説」はそれだけで圧倒的に美しいし、そのありかたは、わたしが現実的に柏木美南という女より愚かではないというありかたなんてかんたんにくつがえしてしまうような気持ちがする。わたしはいままで読んだミステリーのなかでこの小説がいちばん好きだ。


 9月2日(金)

 会社にいった。「台風がくるからはやくかえってね!」と言われたけれどべつにこなかった。
 禁煙4日めだった。もうここまでくればわたしは禁煙大魔王と名のってもよかろう。


 9月3日(土)

 お昼すぎまで寝て、存在の耐えられないきたなさのわたしの部屋を存在に耐えられるように掃除して、図書館によって本を借りた。リチャード・ブローティガン「不運な女」、柴崎友香「ビリジアン」、そしてサーデグ・ヘダーヤト「生埋め」。ヘダーヤトは世界の文学を読もうと勝手に思って「中国の次はイランだな!」と勝手に思って読んでいるけれど、ほとんど女のひとにふれてこなかった厳格なイスラム教徒がフランスに留学して、おしゃれなお店のマネキンに一目惚れして「でへへ」と言いながら愛でまくっている短編だけ読んだ。イ、イラン…。
 ブローティガン「不運な女」は小説なのか旅行記なのかすら読んでいてもまったくわからなくて、わたしが「ジャンルわけなんてくだらない」とわりとかたくなに思っているのはこういう「本」をほんとうに受容したいからなのかなとすこしだけ思った。かりにこれが日記だったとしたら、ううん、これが日記じゃかったとしても、わたしは、これをほんとうにいとおしいと思う。

 
 きょうはわたしの誕生日。
 過去にはパーティがあって、そこに愛する者たちや友人たちの姿があったことをぼんやりと記憶しているが、きょうはそんなことになる見込みは微塵もない。わたしは自分の感傷からとても遠くへだたったところにいる、そこから追放されているとさえいえる。それに、いずれにしても、わたしには手も足も出ない。たったひとつ、ふたたび四十六歳になることはないと諒解しているだけだ。


 
 早稲田松竹にいって本田隆一「大木家のたのしい旅行」、前田弘二「婚前特急」を見た。どちらもすばらしかった。「大木家」は原作・脚本が前田司郎で、前田司郎はまだおもしろい作品もつまらない作品もある感じで、前田司郎というひとの作風のおもしろさもつまらなさもまるごとひっくるめて愛してしまえるほどではないけれど、「大木家」はすばらしかったと思う。とくに「地獄の魚やわらかいね。箸でつかめないね」あたりはものすごく「微妙なおもしろさ」で、それは「おもしろさとおもしろくなさのまんなかでぎりぎりおもししろいがわにはいりこんでいるたぐいのおもしろさ」で、わたしの知るかぎり、いまそこをピンポイントでねらってあてたりはずしたりしているのは世界で前田司郎だけだと思う。地獄の温泉(ビーフシチュー・混浴)にはいって、「なんだかわたしたち話すことないね」としんみり話す絶妙なシーンがあった。「とても長い時間をすごしてきたのに、話すことがいっぱいあるはずなのに」。「目のまえのことについて話すことはできるけれど」。「でも、それでいいような気がするよね」。旅行にいくというのはどういうことなんだろうと思う。わたしはいつも話すことがへたくそでへたくそでいやんなっちゃって、だれかといっしょにいて、話すことがないとわたしはいいけれどそのだれかはこまっちゃうんじゃないかと思うこともあって、わたしが好きなひとたちと会ったあとはいつも死にたくなってしまう。だれかといっしょになにかを見にいくということは、その目のまえにひろがることについて話しにいくということで、それは、そういうことを「だし」にしているようでみにくく思えることもあった。でも、前田司郎は「それでいいような気もする」って言ってて、だから、わたしはすこしずつ受容していきたい。目のまえにひろがっている美しいものたちの裏側をささえているわたしのみにくさと、美しかったはずの関係をみにくさで覆ってばかりのわたしの関係のありかたを、どうかどうか、受容していきたい。
 あとはヨシコ役の橋本愛はかわいすぎて死ぬかと思った。満島ひかりもそうだけれど、ほんとうにかわいい子はほんとうにかわいいあいだにどんどんすばらしい映画にでてほしいとしんから思う。つまらない映画にでて時間を浪費していちゃいけないと思う。それだけで世界は世界をすりへらしているんだから。
「婚前特急」については5人の彼氏をひとりずつ切っていく話だと思っていたけれど、ぜんぜんそういう話じゃなかった。脚本が暴走したんだろうかと思えるくらい横道にそれていくような気がして、彼氏たちをまったく切れていけていない。その暴走のしかたみたいなものが直球のエンターテインメントになるのを避けているように見えてたのしかった。壁がこわれちゃうシーンがさいこうだった。
 ポレポレ東中野でオールナイトを見る予定だったけれど、1時間くらい時間があいちゃったから東中野をぺたぺたと歩いた。すぐに住宅地になったので「住宅地だ!」と思ってばかりいた。空ばかり見て歩いた。夜だから暗くて、うっすら光るように白い雲が浮かんでいた。月は見えなくて暗かった。道に迷ったからどうしようと思った。てきとうに歩いていれば帰れるだろうと思っててきとうに歩いていたら帰れなくなって、気づいたら中野区ですらなくなっていた。「もういっしょうこの街に閉じこめられるかも!」と思った。ときどき思いついたように雨が降った。強い雨だった。気づいたら駅にもどれていてよかった。
 1本めの福間健二「岡山の娘」はいろいろ思うことがあるけれど、「朗読ってなんだっけ?」と思った。ふつうの映画のなかではふつうひとは基本的にひとがふつうにしゃべるようなしゃべりかたでしゃべっているというのが暗黙の了解みたいなものとしてあると思う。そうでなければ映画は演劇になってしまう。「映画はどうして演劇ではないのか?」という問いを、映画をつくるひとは考えていかなければいけないと思う。でもそういう問いをわたしはいっかいも聞いたことがない。「岡山の娘」では朗読がいっぱいはいってくるからそういうしゃべりかたはあえてとらえていないというのが見ているわたしに了解されている。ゴダールの映画は引用がおおいからそれも必然的に「しゃべりことば」ではなく「書きことば」となっていると思う。「書きことば」を「しゃべる」ということがどういうことなのか、という問いがゴダールの映画にはあるかもしれないけれど、わたしはそれをうまく意識することができない。それは、たんじゅんにゴダールの映画が日本語じゃないからだと思う。「岡山の娘」は朗読というしゃべりかたが挿入されているけれど、それは日本語だから直接的にわたしに介入してきて、わたしに意識されてしまう。意識されてしまうことはいいかもしれないけれど、それがわたしにここちよく響くかといったらそうでもないと思う。三角みづ紀さんの詩がかなりとりあげられていて、作中の朗読も本のなかで読んだときの衝撃はない。引用元をきたないデジタル文字で挿入するという美的感覚もどういうことなんだろうと思う。もういっぽさきの場所があるはずだとは思うけれど。
 喫煙1日めだった。わたしは禁煙大魔王じゃなかった。となりで福間健二が煙草を吸っていたからどきどきしていた。「ほんとうは若い女の子が好きなんだよ。撮りたくて撮りたくてしょうがないんだよ」とちょっと恥ずかしそうに言っていて、「あ、このひとはいいひとだな」と確信した。
 2本めはゴダール「アワーミュージック」だった。わたしは「アワーミュージック」については映画史上さいこうの傑作だと思っているけれど、とくに言うことはない。この世界でもっとも美しく、もっともかなしい花がうつっていると思うだけだ。福間健二が「映画史との接続」の話をしていた。わたしはサイレント映画はほとんど見たことがなくて、おもしろいと思ったのもエイゼンシュタイン「戦艦ポチョムキン」とグリフィス「散り行く花」だけだから映画史についてはなにも言わないけれど、ずっと映画の歴史というものがあって、「アワーミュージック」というのが映画の歴史の現時点での象徴だとしたら、それはそれでうれしいと思う。
 3本めは小林政広「愛の予感」で、ひさしぶりに見なおしたらものすごいおもしろかった。「終わらない青」で見た水井真希の歩きかたにはほとんど感動すら覚えたけれど、この映画の渡辺真起子の歩きかたもほんとうにすばらしい。台詞なんてひとこともないけれど、身体をぎゅっと抱きしめて決してまえを向かないで歩くその痛々しさがほんとうに胸をつく。ずっとまえ見たとき、「この映画は将来の俺の姿を象徴している」と思って死にたくなった。小林政広は仕事をしてごはんを食べてひとり部屋に帰ってすりきれた文庫本を読む以外生活というものが存在していない。わたしの将来はこうだろうとほんとうに思った。でも、だからこそたまごとごはんをお味噌汁以外いっさい食べなかった小林政広が映画の終盤ごはんをもりもり食べるようになる姿はほとんど感動的だ。「愛」と呼ばれているけれど、それは「つながり」だと思う。ひととつながろうという、この世界でほんとうに貴いたったひとつの感情がとても真摯に描かれていて、だいすきだと思った。
 4本め「結び目」だった。デジタルカメラで撮られた映画で、福間健二が「ここまで撮れればじゅうぶん」と言っていて、わたしは最初見はじめたとき「そうか?」と思ったけれど、しだいににじんでいく白さの美しさに目を奪われていた。この映画のなかの白さはあきらかに白が付着できる領域をはみだしている。たったそれだけと言えばそれだけだけれど、たったそれだけが映画なんだとわたしは思う。


 9月4日(日)

 眠っていた。眠っていた。もそもそと起きて、ロイヤルホストで日記を書いたり小説を書いたりした。




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