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描いた線のさきを指先でにじませるような

2011.09.10(23:35)

ビリジアンビリジアン
(2011/02/15)
柴崎 友香

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生埋め―ある狂人の手記より (文学の冒険)生埋め―ある狂人の手記より (文学の冒険)
(2001/01)
サーデグ ヘダーヤト

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 9月8日(木)

 会社にいった。帰った。
 柴崎友香「ビリジアン」におさめられている「黄色の日」を読んで、びっくりした。「日本語でなにかを書く」ということがどういうことかをつきつけられたような、すこしだけこわい気持ちになった。


 朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビもなにも言っていなかった。
 小学校への通学路を、わたしは一人で歩いていた。いつも四、五人で誘い合って行っていたのに、黄色の日になぜ一人だったのか、理由はあったと思うが思い出せない。覚えていなくてもいい、どうでもいいことだったと思う。五年生だったのは確かだけれど、季節もわからない。ただし寒くはなかった。周りには子供の姿はなかったから、随分と早く家を出たんだろう。たぶん、七時四十五分だった。



「テレビもなにも言っていなかった。」、「ただし寒くはなかった。」、「たぶん、七時四十五分だった。」という文章は「つけたし」ではあるけれど、その「つけたし」の感覚が平易な文章に圧倒的な感覚をあたえていると思う。たった1文をつけたすことができるというのが才能のちがいだ、とわたしはかつて江國香織について言ったことがあった。柴崎友香もそうだ。「たぶん、七時四十五分だった。」というのは「わたし」の願望でしかないと思う。というより、わたしには「わたし」がどうしてこんなことを「思った」のかわからない。同じように、わたしには「わたし」がどういうひとなのかまるでわからない。「たぶん、七時四十五分だった。」という文章にはふつうに考えてなんの意味もない。なにも示していない。それにもかかわらずそこに提示されたたったひとつの具体的な時間は、だから夢の感覚だ。それは、わたしたちのあいだで「感性」と名づけられてきたものだとわたしは思う。大森兄弟の小説には時間が流れていない、けれど川上未映子の小説には時間が流れている、と書いたことがあった。「たぶん、七時四十五分だった。」はただの思いつきだと思う。その「思いつき」はあきらかに小説のなかの時間に「なにか」が追いつき、融合している瞬間を示していると思う。かつて、ヴォネガットは「たぶん、七時四十五分だった。」と書くべきところに「ピース」と書いた。ヴォネガットはやさしかった。それからわたしたちはきっとやさしくなくなって、そこに書くべきことばを知らないで、そしてようやく「たぶん、七時四十五分だった。」を書くことができた。


 チャイムが鳴って教室に戻ると、わたしの机の上にはようやく切り分けられた消しゴムが置いてあった。切り口は、定規で切ったとは思えないくらい滑らかで鋭かった。ほんとうは、マダガスカルはわたしの行きたい場所だった。六歳のときからいちばん行きたい場所だった。テレビで見た。

 
「テレビで見た。」というのも「たぶん、七時四十五分だった。」とまったく同じ使いかたをされている。「テレビで見た。」というたったひとつの短い文章がこの段落全体にほんとうにたったひとかけらのいとおしさをにじませている。画家が描いた線のさきを指先でにじませるような「テレビを見た。」だと思う。にんげんは「テレビを見た。」という文章にこんなにもたくさんの情感をふくませることができてしまうのかというすなおな感動があると思う。
 たぶん、いまわたしの文章を読んでいるあなたはわたしがこの文章のなにをすばらしいと思っているのかまるでわからないと思う。ほんとうにあなたがそう思っているのならそれはあなたがただしい。けっきょくのところこういうことはどんなにわたしが文章を書いてもなにも伝わらないだろうと思う。それでも、柴崎友香のように文章を書いているひとはわたしの知るかぎり世界にはいない。


 9月9日(金)

 会社にいった。朝、CKさんに「9月はSSさんとKYさんとHTさんがお誕生日だよ!」と言われた気がしていて、SSさんに「誕生日なんだって」と訊いたら「ちがうよ!」と言われた。びっくりした。またなにも聞いていなかったんだろう。
 九州旅行にいくはずだったけれど知らないあいだにいきさきが九州じゃなくなっていたらしくてびっくりした。SSくんとHAくんと待ちあわせて旅行の作戦をたてるはずだったけれど居酒屋にいってお酒を飲んでいた。SSくんとHAくんは常軌を逸したおもしろさを発揮していて、とくにSSくんは呼吸困難になるほど笑って「俺こんなに笑ったのはじめてだ」と言って死にかけていた。わたしたちがなにでそんなに笑ったのか書かない。それは、柴崎友香の文章と同じようにいくら書いてもなにも伝わらないことで、それは、ほんとうにいえばとてもくだらなくてとても美しいことだ。


 9月10日(土)

 起きたら15時でびっくりした。だらだらとサーデグ・ヘダーヤトを読みながらだらだらとして、クリーニング屋さんにいった。「このズボンには黴が生えていますね!」と言われてびっくりした。「俺はその黴が生えたズボンを2週間くらいずっとはいてましたけどね!」とは言わなかった。煙草屋さんにいって「キャスター1のロング」と言ったら「そんなもんねえよ」となぜかぶちきれられた。「100s」と「ロング」はちがうらしいけれど、煙草屋さんはぶちきれすぎていてなにを言っているのかわからなくて、わたしはこわくなって逃げた。
 ドトールでサーデグ・ヘダーヤト「生埋め」と吉本隆明「言語にとって美とはなにか」を読みおえて帰った。どっちもおもしろかった。




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