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彼女を美しいと思えるほどにはわたしがわたしであることができてよかった

2011.09.13(00:31)

ビリジアンビリジアン
(2011/02/15)
柴崎 友香

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 9月12日(月)

 朝、1時間早く起きて柴崎友香「ビリジアン」を読んだ。すごいと思った。それから会社にいって、3時間はやく帰ってドトールで「ビリジアン」の続きを読んだ。やっぱりすごいと思った。
 わたしとはちがってほんとうに世界を好きでいることできるひとの文章だ、と思った。
 どうしてこういう女のひとががこういうかたちで生きているんだろうと思った。彼女の見ているものはわたしには遠すぎてまぶしくてどんなに手をのばしても決してとどかないだろうと思った。それでも、わたしは柴崎友香を美しいと思えるほどにはわたしがわたしであることができてよかったとしんから思った。わたしはきっと大阪なんかだいきらいだと思った。柴崎友香にくらべてわたしはなにもかもをきらいすぎるように思った。「愛」ということばを文章においてかるがるしくつかうほどにわたしはなにも愛してはいなくて、けれど、柴崎友香を読めばなにも愛さなくてもなにかを好きでいられるかもしれないと思う。なにについても無関心で、なにについてもきらいで、文章のうえではなんでもうそをつけて、ほんとうのことなんかなにもなくて、なにがほんとうなのかすらわからなくて、けれど、「ビリジアン」という小説が目のまえで起きていることや目のまえにいるひとや目のまえにあることをほんのすこしずつ好きになることでなりたっているとわたしには感じられたからわたしはわたしとこの小説をふくんだ総体をすこしだけ好きになることができたように思った。


 放課後が終わるときは、「いつまでも友だちでいましょう」という音楽が流れた。五人か六人くらいで、渡り廊下をだらだら歩いていた。ブロック塀の際には植物が植えられていた。名前は全然知らなかった。秋で、あんまり花は咲いていなかった。ひょろひょろと伸びた細い枝の低い木がまばらにあって、その隙間に草がぽつぽつ生えていた。
「サッカー部って、ないの?」
 誰かが言った。
「ないんちゃう」
「あっても、女子は入られへんやろ」
「キックベースあるやん」
 それぞれが答えた。わたしもなにか言った。ブロック塀沿いの、名前のわからないギザギザの葉っぱに、アゲハ蝶が羽根を開いてとまっていた。薄い黄色と黒の模様。秋だから、それそろ終わりの蝶だった。


 ロープから離れて、グラウンドへ出た。赤い空気に包まれて、赤い空を見た。赤は薄まるところなく、空の全部を埋め尽くしていた。雲一つない空間の端から端まで、とても高いところまで、無限に、濃いままで満ちていた。
 わたしは、赤の理由を知っていた。前の年の六月に噴火したピナツボ火山の灰が成層圏まで達し、半球を覆っていた。寒いのもそのせいだった。十二月にも一度、わたしはこの色を見ていた。



 なにかをほんとうに好きになれるひとは、きっと「名前は全然知らな」い植物について書けて、「名前のわからないギザギザの葉っぱ」について書けるんだと思う。わたしにはぜったいに書けない。


 秋だから、それそろ終わりの蝶だった。

 わたしは、赤の理由を知っていた。前の年の六月に噴火したピナツボ火山の灰が成層圏まで達し、半球を覆っていた。寒いのもそのせいだった。十二月にも一度、わたしはこの色を見ていた。



 なにかをほんとうに好きになれるひとはきっとしんの強さが必要なんだと思う。この文章は、きっとそういう強さがないと書けない。「秋だから」は理由じゃない、「赤の理由」も正解じゃない、それでも彼女は美しいと思う。
 ボブ・ディラン、ルー・リード、マドンナ、レニー・クラヴィッツ、ジャニス・ジョプリンたちの登場は彼女の強さによっていると思う。アメリカの歌手たちの存在と「赤」という短篇で「わたし」に暴力をふるう相手のかたくなな不在は同じ強さのあらわれだと思う。女の子たちの陰険な空気は描くのに、おそらくは男の子の直接的な暴力は描かない。前者は彼女の問題で、後者で彼女に関係あるのは彼女が受ける感覚だけだからだと思う。感覚をめいっぱいにあげてそれでもまだ強くあれるひとは美しいと思う。


 とてもいい天気で、空は全部青かった。坂道を上っていくと、中学校があった。グラウンドは野球場みたいな広さで、塀もなかった。白い砂が眩しいのが、暑さをいっそう鮮明にしていた。

 教室はプレハブで、運動場の真ん中にあった。プレハブを境にして半分は運動場として使っていて、あと半分は工事中だった。新しい校舎はできかかっていた。古い校舎は壊していた。プレハブは、屋根は緑で壁は薄緑色だった。

 四角い窓は開いていて、小さい運動場が見えた。砂はほとんど金色に光っていた。眩しかった。四月と五月のあいだだった。中学校に来るようになって一か月だった。わたしはいちばんうしろに座っていた。すぐ前は、岡島だった。


 
 たんじゅんな散文の積みかさねにしか見えないここでなされていることはあきらかに描写じゃないと思う。彼女はひとつの文章につきひとつの断定をあたえているように見える。


 エレベーターは降りてきて停まるときに、ふううん、と音が鳴るので、わたしはエレベーターのことを「ウー」と呼んでいた。好きな怪獣から名前をもらった。急いで帰ってくると、ウーはいつも一階にいた。だからすぐ乗れた。名前をつけたからだと思った。
 九階は風が強かった。ドアも窓も、いつも全開にしてあった。三十五度を超える日も、風が吹いているからだいじょうぶだった。わたしは紙になにかを書いていた。絵のときも字のときもあった。ベランダ側の開いた窓から、紙が飛んでいった。風はいつもドアからベランダに向かって吹いていた。六甲山から生駒山に向かって吹いていた。飛んでいった紙が、下の道路に落ちたのが見えた。ウーは九階にいたから、すぐ地上に降りられた。保育園の柵を乗り越えて、紙を拾った。そのときは絵を描いていた。ほんとうは、描いていたのではなくて漫画雑誌の表紙に紙を載せて透けた絵をなぞっていた。ちゃんとなぞったのに、似ていなかった。蝉がせみせみせみせみ鳴いていたので、夏は終わりじゃなかった。十一歳ぐらいだったから、夏休みの宿題はしなくなっていた。十歳のときに、だいたい人はできあがると思う。

 十一歳ぐらいだったから、暑くてもまだ外に出られた。商店街には自転車がびっしり停まっていて、歩ける場所は少ししかなかった。わたしの自転車は盗られたからなかった。本屋は涼しかった。奥で二時間ぐらい立ち読みをした。



「急いで帰ってくると、ウーはいつも一階にいた。だからすぐ乗れた。名前をつけたからだと思った。」にあらわれている、「ウーはいつも一階にいた。」から「だからすぐ乗れた。名前をつけたからだと思った。」へのつながりの速度は散文としての枠内におさまりながら散文がたもてるとわたしが想像できる速度をこえていると思う。だからわたしはそれを描写ではないと思う。ずっとまえに読んだ「ショートカット」の冒頭、


 夜の道で、角を曲がって片野くんが自転車に乗って走ってきた。白く浮かび上がる横断歩道の前で、信号は青なのに渡らないで、わたしは片野くんを待っていてよかったと思った。


「白く浮かび上がる横断歩道の前で、信号は青なのに渡らないで、」のいびつな読点から続く「わたしは片野くんを待っていてよかったと思った。」でしょうじるさわやかでまっすぐないとおしさを思いだした。
「わたしの自転車は盗られたからなかった。」というのもすばらしくて、この場所にこの速度で文章を挿入できるにんげんは柴崎友香だけだと思う。
 速度が描写をこえ、断定を生んでいる。


 わたしは紙になにかを書いていた。絵のときも字のときもあった。ベランダ側の開いた窓から、紙が飛んでいった。風はいつもドアからベランダに向かって吹いていた。六甲山から生駒山に向かって吹いていた。飛んでいった紙が、下の道路に落ちたのが見えた。

 
 ふつうのひとはこんなふうには描こうとしない。「目のまえに起こっていることを時間軸にそってそのときどきに考えたこと思ったことをまじえて描く」ということ、近代が生みだしたさいこうのものは、たったそれだけのことだった。でも柴崎友香の文章はあきらかにそれではぜったいに説明のつかないものをふくんでいると思う。それはそういうありかたとはべつの美しさの可能性があるということだと思う。
「わたしは紙になにかを書いていた。」という文章は固定化されたたんじゅんな過去のように見えるけれど、「絵のときも字のときもあった。」というのはばらばらの時間軸によって総合された複雑化された過去のように見える。続く「ベランダ側の開いた窓から、紙が飛んでいった。」というのは固定化されたたんじゅんな過去だと一見思えるけれど、それがたんじゅんな過去として断定されるには「そのときは絵を描いていた。」まで待たなくてはいけない。「風はいつもドアからベランダに向かって吹いていた。」は総合された過去としてどの時点もあらわさしてはいないし、「六甲山から生駒山に向かって吹いていた。」でぐんと「場所」まで展開をひろげている。「飛んでいった紙が、下の道路に落ちたのが見えた。」でたんじゅん過去まで回帰し、「ウーは九階にいたから、すぐ地上に降りられた。保育園の柵を乗り越えて、紙を拾った。」と続く。「保育園の柵を乗り越えて、紙を拾った。」と書くまえに「ウーは九階にいたから、すぐ地上に降りられた。」が挿入されているのはそのままではリズムがわるいからというのもあるかもしれないけれど、この文章は郷愁と「わたし」のまっすぐな気持ちよさをよびよせていることにもなっていると思う。「そのときは絵を描いていた。」でたんじゅん過去への断定がはいり時間軸が固定され、通常時間軸の固定は物語の発生へと向かうのだけれど、「ほんとうは、描いていたのではなくて漫画雑誌の表紙に紙を載せて透けた絵をなぞっていた。」で断定への否定となり、「物語のゼロ地点」から「心情」へと一気にふりきれ、「ちゃんとなぞったのに、似ていなかった。」というただの事実の羅列にすぎないかもしれない文章を読むひとへのこころへすとんと落としている。これ以降世界は一気にひろがり、たんじゅん過去を規定としてせまい世界から「蝉がせみせみせみせみ鳴いていたので、夏は終わりじゃなかった。」という「わたしによって断定された季節」をよびよせ、「十一歳ぐらいだったから、夏休みの宿題はしなくなっていた。」という「わたしによって断定されたわたし」すらもよびよせて、「十歳のときに、だいたい人はできあがると思う。」で文章は終わり、死ぬ。生から死へかけぬけていくような文章だと思う。
 ここで書いたことはほとんどわたしのこじつけにすぎないけれど、すくなくともなにかにこじつけられるほどに柴崎友香の文章はゆたかで、複雑なふくらみを内包し、それが立体としてたちあらわれていると思う。ほかのあんまりよくない作家やわたしがやるような、近代がこわくて、たんじゅんな文章を避けてわけのわからない言いまわしでわけのわからない感情を水で溶いた絵の具みたいにつかってのっぺりと平面にひろげていくようなやりかたとは、わたしは、わけがちがうと思う。ときとして挿入される断定的な強さはまぶしく「わたし」を発生させ、「色」を発生させ、祈りを祈っているようですらあると思う。どうかそこに「わたし」と「美しさの発生」が存在しますように。そして彼女は発生されたものを横ぎり、ほんとうにときどき、到達してしまう。


 映画館は空いていた。いちばん後ろのいちばん端の席に座った。映画はおもしろかった。百貨店に入って、ずっとほしい地球儀を見に行った。五万円で、棚の同じところに置いてあった。わたし以外にほしい人はいないのかもしれないと思った。だからって安くはならなかった。作った人がすごいからだと思った。広い歩道橋を歩くころには暗くなっていた。人がたくさん歩いていた。一人残らず知らない人だった。誰もわたしを気にかけなかった。
 どこにでも行ける、と思った。わたしはどこにでも行ける。その意志があれば。



 逆説的かもしれない。でも、「どこにでも行ける」と思った瞬間が、もう彼女の到達だ。速度は無限に上昇し、距離はゼロへと還っていき、そこでちいさな光がふくらんでいて美しい。




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