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「宮澤賢治/夢の島から」(ロメロ・カステルッチ「わたくしという現象」、飴屋法水「じ め ん」)@夢の島公園 多目的コロシアム

2011.09.18(01:11)

詩集 壁に描く (りぶるどるしおる)詩集 壁に描く (りぶるどるしおる)
(2006/09)
マフムード ダルウィーシュ

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成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)
(1993/10/04)
江藤 淳

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 9月17日(土)

 朝起きて、けだるいながらも渡辺玄英「けるけるとケータイが鳴く」を読みかえしたらものすごいおもしろさだった。テーマとしてはたんじゅんかもしれないけれど、これらのことをこういう文章でこういうやりかたで描いたひとはわたしの知るかぎりはいなくて、もしもわたしが中学生だったらほかのひとからこういう詩集をわたされたいと思う。こういう世界がありえたんだということをもっとはやく知りたかったと強く思った。だからわたしはこれを中学生たちにわたすだけの知性がほしいし、ほしかった。


 見たことのない星がひとつ消えて
 見たことのない海が消えて
 見たことのない国や民族が消えて
 (人だってふいに消える
 ホントは見えているものも疑わしい
 消えている 消えていて
 残されたボクらはケータイだけ握りしめて
 (ここってどこ?
 ここにいる(なんだかわからないけど
 ぼくらはバラバラだ ぼくらはつながりたい
 ぼくたちは一人だ ぼくたちはムスーだ
 ムスーのボクはどこにも行けない
 TVの男はいつもきれいな言葉をくれる
 二十四時間だったら優しくなれますか?
 だれかボクにセカイをください

                 

 江藤淳「成熟と喪失―”母“の崩壊」を読んだ。基本的に興味はなかったけれど、わたしはこれはミステリー小説だと思う。文学の出現の連続をひとつの事件として見ることができるなら、そのなかでいったいなにが起きたか、どんな考えかたやどんな気持ちの満たされかたが殺されたのか、それを探るのはやはりミステリーだと、わたしは思う。
 TNといっしょにF/Tのオープニング作品、「宮澤賢治/夢の島から」を見にいくはずだったけれど、TNの仕事がそれはひどいことになっているらしいからいけなくて、しかたなくひとりで向かった。途中で図書館によって松尾依子「子守唄しか聞こえない」、ダルウィーシュ「壁に描く」を借りた。ドトールにいってすこしだけ読んだ。「世界中の文学を読もう!」と思っていて、まえがイランで、次に選んだのがたまたまパレスチナだった。


 われらの後にもホメロスは生まれてくれるのだろうか……万人のために、神話は扉を開いてくれるだろうか。
     ――ダルウィーシュ「また野蛮人がやってくる」



 松尾依子「子守唄しか聞こえない」は文章が大森兄弟とおなじ書きかたをされている。


 タイラが言うとオカは更に目を見開いて、まじで? と言った。黙っていた峰が、初めて意外そうに「へー」と口を開いた。空になったらしい缶を揺すっている。
「どうすんのよお前ら。カップルでフリーター? 世の中世知辛いよ?」
「オカ、それ今先生にも同じこと言われてきた」



「『オカ、それ今先生にも同じこと言われてきた』」の「オカ」という呼びかけは松尾依子の手抜きだと思う。手抜きという言いかたがわるければ、それは松尾依子の弛緩だと思う。「オカ」という呼びかけは読者に「だれがそのせりふをしゃべったのか」ということを認識させるためだけにされた呼びかけで、わたしの考えだと、この場面でオカがしゃべったことにたいして「オカ」と呼びかけ「それ今先生にも同じこと言われてきた」と言うにんげんなんていやしない。言葉については言葉を返すだけでいいはずだと思う。この会話文はにんげんがそれと話すにようにはされていない、ということだと思う。それよりすこしまえの、幾人かの男友達のもとに主人公の「私」がいって、じゅんばんに男友達が「私」に話しかけるシーンも拙いと思う。
 36ページ、「彼らにシンパシーを感じない若者など、ここにいるだろうか。」という文章は小説の文章ではないと思う。すくなくともわたしはわたしの小説にこんな文章なんかぜったいに書かない。この文章はこれを読んでいるわたしに「私」の価値観を押しつけているだけだと思う。わたしは「私」の価値観を押しつけられるために「私」を読んでいるわけじゃないよと思う。


 笑いながらタイラの肩に寄りかかった。薄い布地を通して体温が伝わってくる。部屋の湿度が高いせいか、若いタイラの体には水の巡りが多いからか、湿り気の多い温かさだ。


 こういう文章なら、わたしは読みたい。松尾依子にだって感性はあって、その感性で「若いタイラの体には水の巡りが多いからか」をいれることができるんだから。でもあなたがあなたの価値観を押しつけるとき、きっとわたしはあなたから感性が失われていると思う。価値観の押しつけをしてくるのは感性のかけらもないひとたちだけだ。
 新木場でおりて、夢の島で「宮澤賢治/夢の島から」(ロメロ・カステルッチ「わたくしという現象」、飴屋法水「じ め ん」の2部構成)を見た。生まれてはじめて野外で演劇を見た。1000人くらいのひとがいた。夜で、わたしは受けつけで白い旗をわたされた。受けつけをすぎると深い草が茂ったひらけた場所があって、中央に白い椅子がいくつもいくつもたちならんでいた。ひとびとは渦を巻くようにして旗をかついで歩いていた。スピーカーからは幽玄な音だけが不確かな音量で響いていた。それはたしかに観客たちが定まってすらいない客席にたどりつくための移動にすぎなかったけれど、ひとびとはこんなにも美しかったんだろうかと思った。風が強くて、星は見えなくて、雲は濃かった。空をときどき飛行機が通りすぎていった。わたしにはそれが演出されたものかどうかすらわからなかった。そこにある光景が、草のにおいが、身体をさらっていくような風が、ひとびとがビニールシートがわりにおしりに敷いている旗がはためく音が、ひとつの空間をなしていた。それは体験だった。わたしは生まれてはじめて演劇を見るだけじゃなくて演劇を体験できたような気持ちがした。ロメロ・カステルッチも、飴屋法水も、空間をつくりあげるということについてまるきりレベルがちがっているように感じた。野外で舞台というものが事実上ないということは意外におおきいと思う。ひとびとが見ている場所からは役者のこまかい仕草や表情は見えない、けれども「わたくしという現象」という現象で椅子がぱたぱた倒れはじめたとき、「じ め ん」で役者たちがモノリスを運んできたとき、そこには美しいひとたちがいた。明らかにそこには光景があり、空間ができていた。それは、アンドレイ・タルコフスキーやテオ・アンゲロプロスがカメラを置いてきりとった群衆に似ていた。演劇的ではないと思う、むしろそれは空間的で群衆的であったと思う。そしてそういうありかたがなりたつということを知ることができたというのは、これから舞台を見ていくうえでおおきな価値となるだろうと思った。
 たくさん書くことがあるだろうと思ったけれど、そんなにたくさんは、ない。音がこわくて、ずっと震えていた。あらゆる音が、あらゆる光が、あらゆる群衆が、美しかった。歴史というのはたった2晩でつくられうる。この演劇について書こうとすると、どうしてもそこに生えていた草のことを書かざるえなくなる。これほどまでに美しいことがあるだろうか。そこにあったはずの演劇とはなんだったんだろう。草が生えていることですら演劇だったんだろうか。演劇とはなにか。美しいというのはほんとうにはどういうことだろうか。




コメント
KYさん(空気は読める)って表現何回使えば気が済むの?
むかつくのもさることながら、今最早、お前みたいな時代錯誤の昭和のおっさん以外だーれも使ってないから、止めて下さい。
出来ないなら死んで下さい。
よろしくお願いします。
【2011/09/23 11:28】 | まさ #- | [edit]
まささん

> KYさん(空気は読める)って表現何回使えば気が済むの?

それが「表現」であるなら、何度使えば気がすむという問題ではないと思います。
その表現をやめるときは、
表現者がその表現をすることに耐えられなくなるときだと僕は思います。
僕にとって「KYさん(空気は読める)」はそこでひとつの名前です。
日記を書くということは僕が僕の生活をメタ化するということです。
僕が書いた僕の日記というのは
あなた以上に僕に影響します。
ひとつの連続した僕というにんげんとかかわりつづけている
彼女をいままでAさんと呼んできて 
ある日とつぜんBさんと呼びはじめる、
僕のなかで彼女の連続性がたもたれていたとしても
彼女の呼び名を変えることは僕をわりあいでこぼこさせます。
これは僕の問題です。
僕と現実的にかかわりあいがあるにんげんを
日記のなかでなんと呼びえるかという僕の問題です。


> むかつくのもさることながら、今最早、お前みたいな時代錯誤の昭和のおっさん以外だーれも使ってないから、止めて下さい。

だから「時代錯誤」だとかそんなことは問題じゃないんです。
「もはや」 おもしろいとか おもしろいとか
そういう問題ですらないんです。


> 出来ないなら死んで下さい。
> よろしくお願いします。

いやです。
あなたが僕の「表現」に耐えられないとしたら
それはあなたの問題です。
なぜなら 僕とあなたはまったくの他人だからです。
他者の死であなたの問題を解決しようとするのは
傲慢なことだと思いますし 死をお願いされた僕は
とても不愉快です。
【2011/09/26 00:23】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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