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BATIK「おたる鳥をよぶ準備」@にしすがも創造舎

2011.09.29(00:29)

海猫ツリーハウス海猫ツリーハウス
(2010/02/05)
木村 友祐

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性交と恋愛にまつわるいくつかの物語性交と恋愛にまつわるいくつかの物語
(2005/01)
高橋 源一郎

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 9月27日(火)

 お昼すぎに起きて、ドトールで小説を書いて、図書館で木村友祐「海猫ツリーハウス」と高橋源一郎「恋愛と性交にまつわるいくつかの物語」を借りた。
 電車のなかで両方読んでいて、「海猫ツリーハウス」でひっかかった。


 はじめて見た人はそれだけで「なんだ?」と思うだろうが、その小屋を目印に両側を森に挟まれた細い道のほうへ左折すれば、左手にどこまでも続く木立の合間に形も高さも様々なツリーハウスが団地さながらに点在するのを目撃して、一体ここはどんな場所だとさらに驚くことだろう。


 松尾依子のときもひとつの文章をひっこぬいて「こんなのは小説の文章じゃない」とぷうぷう言ったことがあった。新人賞受賞作にしても、わたしは小説には小説の文章を書いてほしいと思う。これも小説の文章じゃないと思う。「はじめて見た人はそれだけで『なんだ?』と思うだろうが」という文章の主語は「はじめて見た人」だけれど、それってだれだろう。たぶん、読者でもだれでもないと思う。木村友祐というひとはここでまるで観光地を案内するような感覚でこれを書いているように見える。だから、いくら小説の体裁になっていたとしてもそこに書かれていることが観光地の案内文でしかないのならそれは小説じゃなくて観光ガイドだと思う。ツリーハウスがこの小説のなかで重要なポイントをしめているのにもかかわらず、観光地を案内するような、言いかえればひとごとのように書いてしまうその感覚がわたしにはよくわからない。
 都電荒川線にちんちん揺られて、にしすがも創造舎でBATIK「おたる鳥をよぶ準備」を見た。朗読会という趣旨で、無料、ワーク・イン・プログレス的な作品ということは事前に知っていたけれど、BATIK全員参加ということでいつものような舞台が見られるのかなと思っていた。でもちょっとちがった感じだった。事実上照明なしの舞台で、いつもいつも明るくて体育館の床むきだしの舞台がわたしにはちょっとよく思えなくて、照明の偉大さがよくわかった。前作「あかりのともるかがみのくず」の要素だった母的な部分を社会的なものに拡大させた作品ともとれるように思ったけれど、逆に、構成や迫力の部分が欠けているように思えた。BATIKを見終わったあとわたしはいつも「すごいものを見てしまった…」と呆然としていた。今回はそうでもなかった。作品の完成度としても、わざとでなければ、拾いあつめたごみを落としてしまったり、シンバルをたたきそこねたり、あらがあって気になった。それでも、わたしはBATIKがわたしが知るかぎりさいこうのダンスカンパニーだと思いつづけているからきちんと作品として練りあげてまた見せてほしい。ほんとうにそう思う。わたしはBATIKがもっともっと見たい。
 BATIKの笑いは笑えない。痛々しい。笑いたくなっても、わたしはどうにも笑いをこらえてしまう。そういうこともまたあるのかなと思う。世界の国名をあいうえお順で読みあげていくところがあって、わたしは、こんなにたくさんの国があるなかで読んだことがある国の文学なんて数えるほどにしかないなとあらためて思った。だからハイチ文学を図書館で予約した。どこにあるかも、どんな国なのかも、まるで知らない国。


 9月28日(水)

 朝起きて横浜トリエンナーレにいくつもりだったけれどあたりまえのように起きられなくて、したがないからドトールに6時間くらいいてごめんねと思った。
 キース・ジャレット「マイソング」、「ビロンギング」、マイク・オールドフィールド「オマドーン」、デヴィッド・ギルモア「オン・アン・アイランド」を聴いて、木村友祐「海猫ツリーハウス」を読みおわった。ほんとうにすばらしかった。あこがれるものがあって、そのあこがれるものに決して手がとどかないからそれをあこがれとみとめたくなくてだから嫉妬だけをして、嫉妬なんてかんたんだった。なにかになりたい、俺はもっとすごいはずだ、そう思ってばかりで歳ばかり食って、気がついたら手のなかにのこっているものはごっそりなくなっていて、すくなくとも、なくなっているような気持ちばかりはあって、だから、俺は俺をくずだと思う。これは、わたしの話だと思った。
 この小説には方言によみがながふってあるけれど、それはふるほどのものなんだろうかと思った。「フラガール」をDVDで見たとき標準語字幕がふってあって「いやだなあ」と思って字幕を消して見たことを思いだした。「いが」が「お前」という意味はたしかにふりがながふっていなければわからないかもしれない。ふってあっても、ふってなくてもそれはささいな問題にすぎないと思う。でも、わたしは小説に書かれた台詞の意味を追うことは小説を読むうえで重要なことなんだろうかと思う。ふる、ふらないの問題じゃなくて、そこへの問いかけは必要だと思う。外国の映画のなかですべての台詞に字幕が書かれているわけじゃない。映画には聞こえなくてもいい台詞がある。BATIKの舞台でダンサーたちがなにをしゃべっているのか、わたしはそのはんぶんも聞けたかもあやしい。けれどそれでも彼女たちは美しいと思う。
 小林泰三「玩具修理者」をひさしぶりに読んだけれど、表題作、「酔歩する男」、ともにとんでもなくおもしろいと思う。小林泰三という作家をいまでも好きでいられてよかったと思う。家に帰って小林泰三「家に棲むもの」も読んだり、キース・ジャレット「ソロ・コンサート:ブレーメン」を聴いたりした。




コメント
ぶらっと
たまに訪れて、白い壁を汚して帰る。
見た人は、それをゴミだと思うかもしれないし
最高の芸術だと叫ぶかもしれない。
ゴミでも芸術でも、そのほとんどは次の日消される。

バンクシーの『イグジットスルーザギフトショップ』を見て、ああなんてストリートアートは儚いのかと思いましたが、わりとブログのコメントに似てるかもしれませんね。

かなり前にここのコメント欄を汚したぴかそです。あれからも読ませていただいておりました、が、桜井様が面白い文章を書けば書くほど、コメントつけ難い状況でした。あとは、単に私が酔っぱらっていて言葉をうまく使えない状態だった。
 
前にブログを見せるみたいな話をしていたような、していないような気がして、私ブログというものは何だかいつも恥ずかしくて大体すぐに消してしまうのだけれど半年前くらいから読書会のメンバーと始めたブログが結構というか、まあ半年なのだけど、続いているので、一応紹介致します。暇だったら読んでみてください。

落書き、失礼致しました。

【2011/10/02 01:02】 | ぴかそ #- | [edit]
ぴかそさん

白い壁はよごされたって害はないと思うんです。
そこに芸術が発生しても、ごみが発生しても、
害はないと思います。
そして白い壁にも
害はないんだと思います。
てきとうなことだけ言っています。
お返事が遅れました、こんばんは。

あーもーぜったい教えてくれないやと思っていたので
教えてもらってびっくりしています。
なので、びっくりしています。
びっくりした!
【2011/10/11 23:17】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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