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白井剛「静物画―still life」@自由学園明日館

2011.10.31(00:45)

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 がんばって起きて、自由学園明日館までいって白井剛「静物画―still life」を見た。ほとんど眠っていたのでなにも見なかったようなものだけれど、ひとびとがとても同時多発的に静かに動いていてきれいだった。でも1時間40分もあるのにぜんぜん踊り的な踊りはおどってはくれなかった。それは、たとえば維新派「風景画」みたいなもので、肉体の基本的なところからたちあげていくようなやりかたみたいに見えた。維新派も踊りというよりはその動きが風景のなかで流動的な絵としてどう見えるかということにちからをいれているように思う。でも、わたしはそれが動いていても動いていなくても同じ絵を1時間以上見つづけることはきっとできないんだろうなと思った。わたしが維新派を、白井剛を1時間以上見つづけることができたのは、それが公演と呼ばれる区切られた限定的な「もの」と「時間」で、その場所が、空間はほんらいは区切られていないはずなのに時間が区切られていると同時に「劇場」と呼ばれるものに区切られてしまっているからというだけのことじゃないかなと思った。だったら「劇場」と「公演」はわたしに1時間以上座ることを余儀なくさせる空間と時間のことでしかないのかもしれない。「公演」というだけでたとえばテーブルに水をそそぐというなんでもない行為がパフォーマンスとして認識される、そのことが芸術的なことなのか、あるいはくだらないことなのか、その問いかけはすくなくともわたしにとってはおおきな意味を持ちつづけるんだろうと思う。酒井幸菜は「In her, F major」のなかで椅子に座りながらもはさみをふりまわして踊っていた。彼女が椅子に座っているときにわたしが椅子に座っているということ、それはもしかしたら貴いことだったのかもしれないと思った。
 早稲田松竹にいってタルコフスキー「鏡」と「惑星ソラリス」を見た。「鏡」の冒頭で医者が去っていくシーンで風が吹いて、草がさっと揺れていく。風が吹いて草が揺れるというだけで感動できるという映像はこの映画のなかでしか知らなくてわたしはだからこの映画がやっぱり大好きだった。ゲームをやって育ってきたから、わたしにとって「映像がすごい」というのはほとんど「CGが実写みたいに見えてすごい」ということだった。「FFⅧ」はそういう意味では映像の基準のすべてだったと思う。わたしはゴダール「気狂いピエロ」を見ても映像がきれいだとは思わなかったけれど、タルコフスキーの映像を見て映像についてはじめてそうじゃないありかたがありえるのかもしれないと思えるようになった。「鏡」のなかの緑色はほんとうに深くあざやかな色あいをたたえて輝いていて、感動してしまうほどに聖的だと思う。
「惑星ソラリス」はタルコフスキーのなかではぜんぜん好きじゃないほうで、それでも今日で3回めだったはずだけれどまたとおして見ることができなくて眠っちゃった。いっかいもとおしで見ることができていない。宇宙ステーションの話だから緑色がぜんぜんでてこないのが好きじゃないのかもしれない。けれどハリー役のナタリア・ボンダルチュクはすごく美人で好きだと思う。わたしはかわいい女の子が好きで美人な女のひとにはぜんぜん興味がないけれど、彼女は美人だと思う。
 エクセシオールカフェで小説を書いて帰った。


 10月30日(日)

 朝からユーロスペースまでフレデリック・ワイズマンを見にいくつもりだったけれど、あまりにも眠くてごろごろして、図書館でリチャード・パワーズ「囚人のジレンマ」と柴崎友香「また会う日まで」を借りたりしていて、けっきょくうまくまにあわなくて、「病院」と「基礎訓練」の2本しか見られなかった。
「病院」は血がぴうっとなって、肉がぬめぬめびちゃびちゃとなって、げろがぴゅるぴゅるっとなって、あんまり目を開けていることができなかった。あんまりな映像だから健康に気をつけようと本気で思って煙草をやめようと思ったけれど、次の「基礎訓練」を見ているあいだにそういうことは忘れた。にんげんの脳がうつされていた。医師がメスで一部をくりくりとぬきとっていたから、それはたぶん本物の脳だったと思う。でもけっきょくわたしにはよくわからなかった。最初は実習でつかう模型みたいなものかと思っていた。わたしはその脳が本物であるかどうかすらもわからないんだなと思った。
「基礎訓練」のまえにワイズマンの舞台挨拶があった。声がちいさくて、ずっとしたを向いてぼそぼそとしゃべっていたから好きだった。「基礎訓練」がキューブリック「フルメタル・ジャケット」の参考にされたという話を司会者にふられていた。ワイズマンは「キューブリックに『基礎訓練』を貸したら1年もかえってこなかった。あとで映画を見たらそのわけがわかった」と言った。「『フルメタル・ジャケット』のなかでベトナム戦争にいくまでのシーンはどのショットも『基礎訓練』と同じだった。劇映画の監督はあまりにもいそがしすぎて自分で現地まで取材しにいくことはないのだろう」。
「基礎訓練」はおもしろかった。軍隊に入隊したひとたちが最初に見せられたビデオが歯みがきのビデオだった。みんな、そのビデオを見ながら歯をみがいていた。ベトナム戦争にいって生きのこるためにはただしい歯みがきのしかたを覚えなければいけないということだと思った。
 ワイズマンがすばらしいと思うのは、たとえば「病院」なら病院をうつそうとしているということだと思う。彼はえぐい手術シーンをうつしつづけるいっぽうで、病室をまわってごみ箱をさっと消毒していくひとの姿もうつしていく。なにかを撮る、カメラをなにに向けるかというその態度において、ワイズマンは美しいと思う。
 ヴェローチェにいって小説を書いたり本を読んだりした。ずっと書いていた小説がとりあえず最初から最後まで書きおわった。「この地球上たったひとり年老いた駱駝」や「樹の上の八番目の魂」、あるいは「アリステア、僕の声を聴いてくれ」でやってきた無意味な極大化におけるかなしみやしあわせやばかばかさしさの発生はこの小説でやりつくしたように思うから、次はもっと短くてちいさな小説を書こうと思う。だれも死なない、世界が滅ばない小説を書きたいと思う。




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