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たったひとりだけの神話

2011.11.07(23:10)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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 10月31日(月)

 会社にいった。お昼休みが終わって席にもどるとディズニーランドのおみやげがあった。だれのかわからなくてディズニー好きのYHさんのところへいったけれどちがって「SYくんだよ」と教えてもらった。びっくりした。「信じがたい顔をしているけれどだいじょうぶ? ほんとうだからね!」と言われた。だいじょうぶですと言ってもどって、MKさんに「これSYさんのおみやげですって」と教えてあげたら「え!」と言われた。「心臓とまるかと思った」と言われた。彼女も失礼な後輩でよかったと思った。
 終わったあとは会社の飲み会だった。思ったよりもたくさんのものごとを話したような気持ちがしていた。でもそれはいつもよりはすこしだけしゃべったというだけで、だいたい2時間の飲み会のあいだで10分だけしゃべっていたのが20分しゃべるようになったということだけだと思う。TSさんが確実に子供ができる方法を話していた。そういう方法があるということから実際の方法を話すまで10分くらいかかっていた。ひっぱるなあと思ってずっと笑っていた。
 家に帰って「海辺のカフカ」をすこしだけ読んで眠った。


 11月1日(火)

 会社にいった。
 家に帰って「海辺のカフカ」をすこしだけ読んで眠った。


 11月2日(水)

 会社にいった。
 8時くらいにNIちゃんとSOさんがやってきて「飲みにいこうよ」と言われたから9時くらいから飲みはじめた。TIちゃんとHYさんもいた。沖縄料理のお店だったから泡盛を1本もらった。SOさんがいちばん「飲める飲める」と言っていたのに、はじめに1杯だけそそいで、あとはずっと氷と水で薄めて2時間30分くらい1杯めを飲んでいたからそれはうそだった。NIちゃんが日光でひいたおみくじでいいことだらけだと言って見せてくれた。HYさんがそれを見て「おなじのを持ってる」と言っておなじものをだした。「これ長野で買った。信州にしかないものだと思ってた」。わあと思った。


 11月3日(木)

 うっかりべろべーろで帰ったから、12時前には起きたけれどまだ眠くて、それでも「俺は眠気に負けるようなくずだろうか、いな、俺はきっとできる子にちがいない」とわたしはわたしの身体にむちをぺしぺしとうってユーロスペースまでいってワイズマン「シナイ半島監視団」と「軍事演習」を見ながら眠った。眠る場所をまちがえただけだった。
「シナイ半島監視団」では、イスラエルとエジプトにはさまれた場所で国連とアメリカ軍が監視をしていた。そこはたちいることができるひとの数と軍備が制限されていて、監視団は検問をぬけるひとたちの数をかぞえてその場所にいったい何人の数がいるのかを把握している。怪我人がでてはいろうと思っても規定人数を越えてしまうのですぐにはたちいりができなくて国連の許可が必要だった。「ここの伝統だ」と言ってブーツにビールをそそいでまわし飲みをしていた。
「軍事演習」は軍事演習だった。街のなかを戦車がとおり、森で模擬戦をしていた。「弾がもったいないから撃たない」。「いや。これがほんとうの戦争だったら撃っている」。「冗談じゃない。ほんとうの戦争なら俺たちはもうとっくに死んでいる」。あとは眠っていた。
 ヴェローチェで日記を書いた。 今日は電車のなかでバルビュス「地獄」を読みおえて、リチャード・パワーズ「囚人のジレンマ」を読んだ。ワイズマンを見たり、パワーズの小説を読んだりしているとなんとなく思うけれど、アメリカは日本なんかよりもずっと政治的な言葉が強いんだと思う。それは、ワイズマンが演説を最初から最後まで撮りつづけたり、パワーズが政治的言説をおおく引用して物語のなかに織りこませていくことだったりで思わされることだから、それはそのふたりがそうでそれ以外のひとたちはそうじゃないのかもしれない。あるいは、そのふたりがそう思わせるようなものすごいちからを持っているというだけのことかもしれない。
 すくなくても、わたしが体験したアメリカ軍的な演説にもっとも近いのは小学校や中学校の校長先生のお話的なものだった。高校以降になるとそういうものはだんだん薄れていって、だから、きっとわたしはちいさいころのほうがずっと軍人で、おとなになるにつれて軍人じゃなくなっていくんだろうと思う。政治にまつわる言葉をわたしは聞きながすことしかできなかったし、きっと、ほかのひともそうなんじゃないだろうかと思う。アメリカの軍人や政治家が「アメリカがどういう国であるか」を語るほどに日本の政治家は「日本がどういう国であるか」をおおやけには語らないようにわたしには見える。きっと、彼らもわたしも「日本がどういう国か」ということを知らないんだろう。アメリカにおいて民主主義は政治的な話であっても、日本では民主主義は政治ではないんだと思う。それはただの雰囲気にすぎなくて、雰囲気に民主主義をにじませるだけで「それが民主主義だ」とはきっと言わないだろうと思う。
「日本はだめになる」と言うときたぶんそれは「日本経済がだめになる」と言うのとほどんとおんなしだと思う。経済がだめになるときにその国じたいがだめになっていくというありかたがあたりまえのようになっていて、それは西洋の考えでそれを受けいれてきたからこそのような気もするけれど、21世紀にもなってそういうのってどうだろうと思う。「日本がだめになる」という雰囲気がひしひし感じられるのはわたしがいままで生きてきたなかで今年がいちばんひどい。そして、「日本がだめになる」ということが日本のなかをめぐるお金がアメリカやアジア諸国に流出するということだとなんとなく思えたのも今年だった。かつて西洋の列強が軍隊をうしろ盾にして植民地におこなったことは経済だった。軍隊がなくてもそういうことができるようになったし、そういうことができるように世界全体の制度がととのえられていったということだと思う。Amazonの電子書籍を受けいれれば日本の印刷会社や小売や取次はだめになるかもしれない。そこにまわっていた利益がAmazonにうつるかもしれない。でも、わたしたちはそこにあらわれる快適さや便利さを享受できるかもしれない。「ものごとがもっとゆたかに、快適になる」というのは世界の、というか先進国のしたにぶらさがった発展途上国を掘りさげることができていた時代の神話みたいなもので、「ものごとがもっとゆたかに、快適になる」ということが日本という国そのじたいを消していくということが矛盾なく起こりえるというありかたにいまのわたしたちはうまく耐えられていないだろう。ゆたかさはすでにひっくりかえっているかもしれない。でも、それは日本しか見ていないひとが日本に見る現象というだけだろう。
 かつて、そのつじつまをあわせるためにニュートンは古典力学のなかで観察者を生みだした。わたしたちはいまだニュートンで、いまだに観察者でしかない。
 東日本大震災は「日本がだめになる(だろう)」という象徴なんだと思う。そういった理解のされかたがつまり教科書的な歴史なんだろうと思う。


 11月4日(金)

 会社にいった。新入社員が、直接的じゃないけれどうちのチームに配属された。ふたりだった。会社の席替えをした。あとはなにかをした。わたしはいつもなにかをしていた。


 11月5日(土)

 あまりの眠さに眠った。眠ってばかりいた。わたしはぐうたらなくずだった。ワイズマンも見にいかなかった。


 11月6日(日)

 あまりの眠さに眠っていた。眠りすぎてもうあたまが痛いくらいだった。
 眠りと眠りのあいだで、村上春樹「海辺のカフカ」をひさしぶりに読みかえした。
「海辺のカフカ」は「ねじまき鳥クロニクル」の次の長編で、いっかい読んだときはぜんぜんぴんとこなかったけれど、この小説はそうとう「やばい」んじゃないかなと思った。
 以前、だれかが高橋源一郎と村上春樹の2作めを比較して、「高橋源一郎は言葉のほうへ進み、村上春樹は物語のほうへ進んだ」と言っていたような気がする。それをおしすすめていま見ると「高橋源一郎は作家じゃなくなろうとしていて、村上春樹は作家になろうとしている」ように見える。言葉というものをおしすすめすぎた結果として、たとえば、高橋源一郎の「『悪』と戦う」はもうわたしには小説には見えない。高橋源一郎というにんげんがぐずぐずに溶けていて、見ようによってはとてもグロテスクで、読むに耐えないようにすら思う。そのいっぽうで、村上春樹は言葉を物語への推進力として使いすぎているように見える。たぶん、「ねじまき鳥クロニクル」と「海辺のカフカ」を読みくらべればはっきりするように思うけれど、「海辺のカフカ」の物語の推進力は常軌を逸しているように見える。作中の「海辺のカフカ」の歌詞や「オイディプス王」が物語全体の隠喩となって、この物語は爆発的に、ほとんどむちゃくちゃに進んでいく。すでに、物語は「進まる」ものとしてあって、それが異常なのは、すでにわたしたちは「物語」を「進まる」ものとしてとらえてはいなくて「進める」ものとしてとらえられていないからだと思う。


「しかし、おじさん、この石がどうしてそんなに大事なんだい? たいして立派なものには見えねえんだけどね」
「正確な言い方をするなら、この石自体には意味はない。状況にとって何かが必要であって、それがたまたまこの石だったんだ。ロシアの作家アントン・チェーホフがうまいことを言っている。『もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』ってな。どういうことかわかるか?」
「わからないよ」
「まあ、わかるまい」とカーネル・サンダーズは言った。「わかるわけないとは思ったけど、礼儀としていちおう訊いてみたんだ」
「ありがとさん」
「チェーホフが言いたいのはこういうことだ。必然性というのは、自立した概念なんだ。それはロジックやモラルや意味性とはべつの成り立ちをしたものだ。あくまで役割としての機能が集約されたものだ。役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの自体においてではなく、関連性の中に生ずる。チェーホフはドラマツルギーというものを理解しておった」
「俺っちにはぜんぜん理解できねえよ。話がむずかしすぎる」
「お前の抱えている石は、チェーホフが言うところの『拳銃』なんだ。それは発射されなくてはならない。そういう意味ではそれは大事な石だ。とくべつな石だ。しかしそこには神聖性なんてない」


 ソシュールが「言語とは差異の体系である」と言ったことととても近しい転倒がここで語られている。「ロジックやモラルや意味性はそのもの自体においてではなく、関連性の中に生ずる」ということは、拳銃は発射されてはじめて拳銃という意味を持つということで、それは、犬が「犬以外が犬ではない」ということを示すことによってはじめて犬という意味を持つことととても似ているようにわたしには思える。
「意味のあるものごとをつないで物語をつなぐ」というおおくのひとが無意識にやっているミクロ的な視点ではない、「物語の連環のなかで意味が生じる」というマクロ的な視点がここにあるようにわたしには見える。そして、それが「物語を『進まる』ものとしてとらえる」とわたしが言った意味だと思う。
「1Q84」のなかには物語しかない。終わった物語をむりやりにつなぐようなかたちですら村上春樹は吐くように物語をつむいでいった。その結果がよかったのかはともかくとして、その領域で物語をつむいでいる現存する作家は村上春樹くらいなんじゃないだろうかとわたしは思って興奮した。
 村上春樹はこの世界でたったひとりだけ神話を書いている。


 11月7日(月)

 会社にいった。
 村上春樹「海辺のカフカ」の小道具には、いわゆるポストモダンがとりいれられている。ジョニー・ウォーカーとカーネル・サンダーズというだけのことだけれど、ふつう、ポストモダンは物語が霧消していくような方向にむかいがちなのにこの小説はそういうことをいっさいよせつけないほどの強い態度があるように見えた。深読みすれば、村上春樹の小説にはまずでてこないレディオヘッド「キッドA」なんかがでてくるあたりも、そういうことの関連としてあげられるのかもしれないなとせっかく思ったので書いておこうと思った。書いた。




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