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設計書をかじるうさぎ

2011.12.10(01:03)

 11月26日(土)

 起きて、パソコンをつけて「モニカ初期HPひとりクリア」をずっと読んでいたらいつのまにか夜になっていた。びっくりした。
 平山夢明の本を読んで眠った。

 
 11月27日(日)

 起きて、ずっと平山夢明を読んでいた。映画を見にいきたい、とか、ロイヤルホストにいって文章を書いたり本を読みたい、とか、思ったけれど、わたしはわたしの部屋のなかでとても無力でありつづけていた。わたしのうさぎ小屋みたいな部屋はいつにもましてわたしをうさぎに見せかけていた。
 いま、もしもグリムみたいなやりかたで物語を書くことができるとしたら、それは平山夢明が実話怪談を語るようなやりかただとわたしは思う。わたしたちはもしかしたらもうほとんど物語を語ることができないんじゃないのかなとときどき思う。わたしたちは物語を語ろうとするとまちがってうたいだしてしまう。BUMP OF CHICKENみたいに。だからわたしたちにはうたうことはできるけれど、語ることはできない。語ることの事実を、音符や楽器にたくすことしかできない。音楽を聴くとき物語が語られるなら、その音が鳴りやんだとき、ひとびとはどういうふうにそれを語りつげばいいんだろう。語りつぐためにギターは必要なんだろうか。


 11月28日(月)

 会社にいった。


 11月29日(火)

 会社にいった。


 精神は自己を意識するとき、自己を対象化せざるをえず、この客観化は直接にさまざまな差異をうみだし、それが全体として客観精神のさまざまな領域をなすのですが、一方、その魂は、これらの領域が一つにまとまり、単純な統一へとむかうときにはじめてうみだされます。つまり、民族精神とは単一の個性であって、その本質的な姿が神としてイメージされ、崇拝され、うけいれられると、それが宗教であり、像として直観的に表現されると、それが芸術であり、認識の対象となって概念化されると、それが哲学です。
             ――ヘーゲル「歴史哲学講義」


 11月30日(水)

 会社にいった。


 12月1日(木)

 会社にいった。


 12月2日(金)

 会社にいった。


 ゲルマン国家にも、宗教世界の精神的原理と世俗世界の粗野や野蛮との対立は存在している。だから、世俗の世界は精神的な原理にふさわしいものにならねばならない。が、ねばならないは所詮ねばならないであって、さしあたっては、精神なき世俗の権力が宗教権力の前に消滅するしかない。ところが、宗教権力が世俗権力のなかに入りこんでいくと、宗教権力はその宗教的な権力もうしなってしまう。そうした教会の衰退ののちに、より高度な理性的思考形態があらわれてくる。もう一度自分にかえってきた精神は、思想の形をとった作品をうみだし、もっぱら世俗の原理にもとづいて理性的なものを実現する力を獲得します。こうして、精神の原理を基礎とする一般観念の力によって、思想の王国がうみだされる。国家と教会の対立は消えうせ、精神は世俗のうちにおのれを見いだし、世俗の世界を有機的な統一体として形成します。
             ――ヘーゲル「歴史哲学講義」


 12月3日(土)

 3時まで眠っていたからなにもかもがよくわからなくて、ベートーベンの交響曲第7番第2楽章の最初の3分をくりかえし聴きながらぼうっと「にゃすけ的やり込み攻略」でFF5の攻略を読んでいた。このレポートがたのしいのは、記事じたいの美しさと圧倒的な論理があるからだと思う。ゲームに過剰に論理を持ちこむというのは推理小説のやりかただから、これはほとんど推理小説だと思う。ベートーベンのくりかえしも美しかった。
 森博嗣は小説を犯人やトリックを決めないで書いていると読んだことがあった。起こした事件を自分で解いて、どうしても解けない謎があると謎じたいを削除してしまうと。ここにあるのはひとつの美しい転倒だと思う。アインシュタインの相対性理論やゲーデルの不完全性定理にわたしが美しさを感じるのはそこに転倒があると思う。ゴダールは「脚本というものは監督や役者が『いま自分たちがなにをつくっているか』をたしかめるくらいにしか役にたたない」と言った。それもまた美しい転倒だと思う。
 ヘーゲルは弁証法と呼ばれるものをつかって世界の流れをとらえた。いったいいつにんげんは世界の流れという抽象的概念を言葉で呼ぶすべを身につけたんだろう。「わたしは世界を美しく思う」と言っていたひとは、いったいいつから「わたしは世界を弁証法的にとらえる」と言いはじめたんだろう。そのときよりもまえと、そのときよりあとのにんげんを、おなじ名前で呼びえるということは、ほんとうにはいったいどういうことなんだろう。
 わからないことがたくさんあると思う。でも、そのことを深く知りたいとはうまく思えない。




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