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わたしはだれの頭にも茨の冠をかぶせることはできない。

2011.12.19(01:13)

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 12月5日(月)

 会社にいった。


 通りかかった人々が”頭をふりながら、”イエスを冒涜してこう言った、「お宮をこわして三日で建てるという人、自分を救ってみろ。神の子なら、十字架から下りてこい。」同じように大祭司連も、聖書学者、長老と一しょに、こう言ってなぶった、「あの男、人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様じゃないか。今すぐ十字架から下りてくるがよい。そうしたら信じてやるのに!」
                 ――「マタイ福音書」

 12月6日(火)

 会社にいった。

 いまに多くの人があらわれて、「救世主はわたしだ」と言ってわたしの名を騙り、多くの人を迷わすにちがいないから。戦争を目のあたりに見たり、また戦争の噂を聞くであろうが、あわてないように注意せよ。”それはおこらねばならないことである”が、しかしまだ最後ではない。世の終わりが来る前に、”民族は民族に、国は国に向かって敵となって立ち上がり、”またここかしこに飢饉や地震があるのだから。しかしこれは皆まだ、新しい世界が生まれるための陣痛の始めである。その時、あなた達は苦しめられ、殺される。またわたしの弟子であるために、すべての国の人から憎まれる。
                 ――「マタイ福音書」
 12月7日(水)

 会社にいった。
 

 学者は照れかくしにイエスに言った、「では、わたしの隣の人とはいったいだれのことですか。」イエスが答えて言われた、「ある人が――それはユダヤ人であった――エルサレルムからエリコに下るとき、強盗に襲われた。強盗どもは例によって着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げていった。たまたま、ひとりの祭司がその道を降ってきたが、この人を見ながら、向う側を通っていった。同じくレビ人もその場所に来たが、見ながら向う側を通っていった。ところが旅行をしていたひとりのサマリヤ人は、この人のところに来ると、見て不憫に思い、近寄って傷にオリブ油と葡萄酒を注いで包帯した上、自分の驢馬に乗せて旅籠屋につれていって介抱した。そればかりか、次の日、デナリ銀貨を二つ出して旅籠の主人に渡し、『この方を介抱してくれ。費用がかさんだら、わたしが帰りに払うから』と言ったという話。それで尋ねるが、この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣の人であったとあなたは考えるか」
                  ――「ルカ福音書」

 12月8日(木)

 会社にいった。

 もし右の目があなたを罪にいざなうなら、くじり出して捨てよ。体の一部が無くなっても、全身が地獄に投げ込まれない方が得であるから。もしまた右の手があなたを罪にいざなうなら、切り取って捨てよ。手足が一本無くなっても、全身が地獄へ行かない方が得であるから。
                 ――「マタイ福音書」


 12月9日(金)

 会社にいった。

 あなた達は昔の人がモーセから、”隣の人を愛し、”敵を憎まねばならない、と命じられたことを聞いたであろう。しかし、わたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。あなた達が天の父上の子であることを示すためである。父上は悪人の上にも善人の上にも日をのぼらせ、雨をお降らしになるのだから。自分を愛するものを愛したからとて、なんの褒美があろう。人でなしと言われるあの税金取りでも同じことをするではないか。
                 ――「マタイ福音書」
             

 12月10日(土)

 お昼すぎに1回起きて、村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」を読みおえた。ユキ(美少女・霊媒)と五反田くんをわたしはとても好きだと思う。ユキ(美少女・霊媒)と五反田くんをわたしはとても好きだと思う。
 もう1度眠って起きるとドアがたたかれていた。あけてみると知らない男のひとがいて「あなたにお伝えしたいことがあってきました」と言われた。ドアを開けているとなかにはいってきた。よくわからないことを話しだしたので「あなたはなにをしにきたんですか?」と訊くと「あなたにお伝えしたいことがあってきました」と言われた。「興味がありません」と言うと「あなたにお伝えしたいことをあなたに話していないのに興味があるとかないとかそういう問題ではないでしょう」と言われた。そうかもしれないと思った。でも俺は見ず知らずの男からなにかを伝えるために生きているわけじゃないと思って「帰ってください」と言った。そのひとは「あなたは私をあやしいセールスかなにかだと思っているでしょう。そういうかんちがいをされるとたいへんかなしい」と言ってかなしみだして、怒りだして、説教をはじめた。めんどうくさくなってはいはい答えていたらかんにさわったらしくてもっと怒りだして、わたしは殺されるかもしれないと思った。なんで俺の部屋のなかで俺はこんなにもぴんちなんだろうと思って笑うと「笑いごとじゃねえよ」と怒られた。あとになってもっと怖いひとがやってきて、わたしはいいかげん「死んでしまう!」と思って警察に電話をかけようとした。そうすると帰った。反吐がでるような日だった。ごみくずのようなにんげんがやってきてごみくずのようなことを言ってごみくずのように去っていった、まったく反吐がでるような日だった。「私はしばらくこの近所をまわっていますから、見かけても石とか投げないでくださいよ」と言われた。「投げませんよ」とわたしは言った。「おまえらは俺にとってごみくずで、おまえらみたいな存在が俺をいちいちすりへらして、俺をいちいち不愉快にして、俺をいちいちたまらない気持ちにさせて、だからきっとおまえたちは俺がごみくずだと思うよりもよっぽどごみくずなんだよ」とは言わなかった。ちきんだから。


 12月11日(日)

 お昼すぎに起きて、早稲田松竹までいってアク・ロウヒミエス「四月の涙」、マルコ・ベロッキオ「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」を見た。どちらもおもしろかった。「四月の涙」はフィンランドの映画で、知らない言葉をしゃべっていたから好きだった。基本的にアメリカ映画のようなものだとわたしは思ったけれど、どことなくちがってわたしがゆたかに見ることができたのは、それがフィンランド語だろう言葉をしゃべっていたからと、エーミル・ハレンベルグ(判事)役のエーロ・アホの変態壊れっぷりがすばらしいからだと思う。
「愛の勝利を」はどことなくクストリッツァ「アンダーグラウンド」を思わせる映画で、中盤ほとんど眠っていたからよくわからないし、たぶん監督はほとんど冗談でつくっているようにすら見えるけれど、おおきな物語があるような気がした。
 帰って眠った。映画の内容をすべて忘れて、眠った。


 12月12日(月)

 会社にいった。さいきんずっと岩波文庫「福音書」を読んでいて、「マルコ」、「マタイ」、「ルカ」まで読んだ。読んでも読んでもおなじ話がくりかえされているのでびっくりした。キリストは3回殺されて、3回復活していた。「マタイの福音書」がわたしは3つのなかでいちばんおもしろいと思う。キリストがいちいちかっこういいからだ。
 ユダヤ教はイエスを救世主とは見なさないで救世主の到来は今後にあると考えているらしくて、キリスト教はイエスを救世主と見なして救世主はすでにきたと考えているらしい。ユダヤ人は救世主と名のるイエスを殺した。イエスを救世主と見なさなかったユダヤ教徒、イエスを救世主と見なしたキリスト教徒とどちらがただしかったんだろう。わたしが思うのはただ、ただしさは「事実」によるものではないかもしれないということだ。コナンくんは「真実はいつもひとつ」と言った。でも、キリストが生まれて2000年もたったなお、ユダヤ人はいる。茨の冠をかぶせ、十字架にはりつけにしたいひとは、もういないのに。
 わたしもそれはおなじだと思う。わたしはだれの頭にも茨の冠をかぶせることはできない。だれかに向かって「ユダヤ人の王よ!」とひやかすこともできない。おなじように、だれかの足に接吻をすることも、高価な香油を頭にそそいでやることもできない。


 12月13日(火)

 会社にいった。


 12月14日(水)

 会社にいった。


 12月15日(木)

 会社にいった。会社にいったから仕事をした。


 12月16日(金)

 会社にいった。うちの会社のなにかの記念のパーティがいつかどこかであったらしくて、ロビーに胡蝶蘭がたくさんならんでいた。胡蝶蘭はいらないから、希望者に抽選であげると言われていた。うちのチームリーダーのNさんがほしがっていて、わたしのチームみんなで希望メールをだした。わたしとNさんがあたった。「自分の人生になにもあたりはないのに!」と思ったけれど黙っていた。
 家に帰って眠った。


 12月17日(土)

 起きたら11時だった。そんなはずはないと思って眠って起きたら5時だった。それは夕方かもしれないし夜かもしれなかった。春や夏だったらわたしはそれを夕方と呼んだかもしれないけれど、いまは12月だからそれは夜だった。夜だから寒かった。寒かった。
 村上春樹「回転木馬のデッド・ヒート」の「嘔吐1969」を読んで、それから服を着替えてそとにでかけた。池袋の新文芸座にいって新海誠の特集をオールナイトで見た。新海誠が知らないひととトークをしていた。「『ほしのこえ』は映画ではない」と言った。「僕はあれをムービーとしてつくったつもりだった」と。その言いかたはただしいとわたしは思った。「秒速5センチメートル」や「雲の向こう、約束の場所」は映画ではないと批判を受けたと彼は言った。その言いかたもまたただしいと思った。「秒速5センチメートル」は第3話でいきなりPVになってしまうけれど、それを言ってしまえば、ゴダール「ソシアリスム」の第3部もPVだろうし、「映画史」もPVだと思う。かりに「星を追う子ども」についてわたしたちが「あれはジブリのエピゴーネンだ」としか言えなくて、そうとしか言えないわたしたちの想像力やものの見方がまずしいのだとしたら、それはいったいどういうことなんだろう。たとえばそれはリテラシーが低いためものを使いこなすことができないということとつながるんだろうか。けれど、たとえリテラシーが高くても、「ほしのこえ」の美香子のメールは昇のところまでは届かなかっただろう。美香子のメールが届かないかぎり、きっとわたしたちは「星を追うこども」を「ジブリのエピゴーネンだ」と言うしかないのかもしれない。「ほしのこえ」、「雲の向こう、約束の場所」、「秒速5センチメートル」、「星を追う子ども」と続けて見ると「星を追う子ども」の絵柄の特異さに気づく。あれはやはりわたしにはどうしてもジブリに見える。彼女は走り、ものを食べ、山道の山羊にあいさつをしていた。新海誠は「アニメで田舎を描いたらそれはジブリでしょう」と言って、それはそのとおりかもしれないけれど、かんたんな顔をした女の子が走って山道の山羊に「こんにちは!」とあいさつをしたらそれがジブリなんだと思う。
 ジブリ。
 けれど、わたしたちが言う「ジブリ」とはいったいなんなんだろう。わたしたちはなにをさしてジブリと言っているのか、ほんとうのところ正確なものはなにも示していなくて、たとえば、「魔女の宅急便」と「崖の上のポニョ」はちがう。「ポニョ」の背景はルノワールに近いとわたしは思う。「魔女の宅急便」よりもずっとずっと、ルノワールに近い。
 4本を見て4本とも泣いた。でもそれは眠いだけかもしれなかった。新海誠は輝かしい青春を描いていて、輝かしい青春の喪失もけっきょくのところ輝かしい青春でしかないとわたしは思っていて、輝かしい青春を見るとわたしは死にたくなるから今夜は4度死にたくなるだろうと思っていた。でもならなかった。なにかをあきらめはじめているのかもしれなかった。
 西洋美術館にいって「裸のマハ」を見たり、ワン・ビン「無言歌」を見たあとで帰ろうかと思っていたからベックスにいって日記を書いたり岩波文庫の「福音書」を読んだりしていた。8時30分くらいにとても眠くなって「帰ろう…」と思ってそとにでたら朝だった。まぶしかった。空気がつめたくて、色素の薄いアスファルトたちがならんでいた。ひとびとは煙草を吸っていた。冬の朝だった。
 目が覚めたから山手線で上野行きとは反対の電車に乗って西洋美術館までいこうと思ったけれど、電車に乗ったら眠くなって、けっきょくそのまま帰ってきてベケット「ゴドーを待ちながら」を読んで眠った。キリストとともに磔にされたふたりの泥棒の話がでてきた。


 12月18日(日)

 ずっと眠っていた。起きて「ゴドーを待ちながら」を読んだ。それだけだった。


 ヴラジーミル 全く無意味になってきたな。
 エストラゴン いや、まだそれほどでもない。


 
 ヴラジーミルとエストラゴンはゴドーをただ待ちつづけている。ただ、無意味な会話をえんえんと交わして、ただ待つための時間をつぶすためだけに、「首をつってみようか」とさえ提案して。
 ひとりで待ちつづけることは自虐的でもなんでもない、でもふたり以上でなにかを待ちつづけることは自虐的で、ひどくかなしい。そのふたり以上がおたがいになにも生みだすことができないということがありありとわかってしまうから。




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