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「ゴヤ―光と影」@国立西洋美術館

2012.01.04(23:06)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)本格小説〈上〉 (新潮文庫)
(2005/11)
水村 美苗

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 1月1日(日)

 家族のなかに黙っていたり、テレビを見たり、「ハーメルンのバイオリン弾き」を読んだりしていた。AKB48「ヘビーローテーション」をはじめて聴いたけれど、アパートにはテレビがなくてテレビを見ないわたしがお正月のすこしのあいだ見ただけでもう20回くらいは聴いて「あいうぉんちゅ~あいに~ぢゅ~」とか頭のなかでローテーションしているくらいだからこれはすごいことだなあと思った。
 家族が寝静まったあと、もそもそと1階におりて、ちでじにすら対応しているというものすごいテレビでヴィム・ヴェンダース「ランド・オブ・プレンティ」を見た。とてもおもしろかったのでうれしいと思ったた。なんだかんだいってヴェンダースの音楽はすてきだなあと思った。9.11テロ以後の話で、主人公の男(ジョン・ディール)は街をまわってテロリストを探している。でもそれは自発的な行為で、実際的に見ているとなんでもないことまですべてテロに結びつける気狂いじみたものでしかなく、実際彼はちょうかわいい姪(ミシェル・ウィリアムズ)に「俺の頭がおかしいと思っているだろう?」と訊いている。すぐに思いだすのはティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」で、この小説は核におびえた男が自宅の庭に核シェルターを掘って家族から「気狂い!」とののしられて…という物語で、彼の行為の構造は一致していると思う。問題はここにあるんだろうか、あるいはわたしたちはどれを問題と呼ぶべきなんだろうか。テロを警戒して昼間から監視カメラとマイクを積んだ車をぶいぶい動かしてなにもしていない貧乏なイスラム教徒を追いまわすことは狂気で、そうしないことは狂気じゃないんだろうか。核におびえて家族に「愛しているんだ」と語りかけつづけながら自宅の庭に核シェルターを堀り、家族を睡眠薬で眠らせてシェルターのなかに放りこむことが狂気で、そうしないことは狂気じゃないんだろうか。3月11日の地震のあと、渋谷を歩いていて軍人がつけてしゃこしゃこいうようなガスマスクをつけて歩いているひとを見かけたことがあった。ガスマスクをつけて歩いていたその男のひととガスマスクをつけないで歩いていたわたしとどっちが狂っていたんだろう。村上春樹「ノルウェイの森」のなかで直子はワタナベくんに「わたしはまともじゃない」と言って、ワタナベくんは「きみがまともじゃないとは思えない。僕がまともじゃないと思う連中は元気にそとを歩いているよ」と言った。けれど、わたしにはなにかを断定することはできない。だれをも狂っていると言うことはできないし、だれをも狂っていないと言うこともできない。ただ、「ランド・オブ・プレンティ」のジョン・ディールのありかたをわたしは美しくはないと思う。オブライエン「ニュークリア・エイジ」のなかの男は家族を愛しているとくりかえして家族を守るために穴を掘りつづけたけれど、「ランド・オブ・プレンティ」のジョン・ディールがそのかわりに主張していたのは空虚なナショナリズムでしかないように見えた。ようやく、わたしたちは9.11以後になってようやく、愛なしで狂うことができるようになったということかもしれないとしたら、それはほんとうにはいったいどういうことなんだろう。


 1月2日(月)

 起きて親戚の家にいって、わたしはいつもうまくしゃべれないし、しゃべることもなくて、すき焼きをずっと食べていた。もぐもぐ。
 それからTNといっしょに有楽町までいって、TNはマルイでもこもこしたものを買って、わたしはお財布を買った。100人が見れば100人がそれはもうだめだろうと思うだろうお財布をつかっていたからだった。Paul Smithさまのお財布を買おうと思って、2時間くらいお財布を見つめたあと1年ぶんの勇気をだして「ください」と言ったら「在庫がないでござる」と言われた。そうか俺みたいな豚にはPaul Smithさまのお財布はすぎるということかと思った、キリストは「豚に真珠をあたえても放るだけである」と言いきっていたけれど、あれは俺のことを言っていたんだなあ、さすが預言者だなあと思った。
 YNとみっちと合流して、銀座のほうにぶらぶらと歩いてごはんを食べてお酒を飲んだ。YNがむきむきな話をしていた。TNが「俺も明日からジムにかよおう」と言っていたけれどわたしはぜったいかよわないなと思った。みっちがすのぼうの話をして、TNが「10万のウェアを買った。でも板は買っていない」と言った。さすがだなあみんな、と思った。


 1月3日(火)

 なにもしなかった。「Qさま」を見ていたぐらいだった。あとはなにもしなかったと言ってもいいぐらいなにもしなかった。夜になってアパートに帰って、「ノルウェイの森」を読んで眠った。


 1月4日(水)

 12時すぎにはばっちり起きて、上野までごっとんごっとんと電車に乗った。電車のなかで水村美苗「本格小説」をとてもひさしぶりに読みかえしていたから上野でおりそこねるところだった。かりに、小説をはかる尺度として「おもしろさ」というのを導入することがただしいありかただったとすれば、「本格小説」はいちばんかもしれない。これは近代小説だとわたしは思う。そしていま、近代小説というのは書こうと思っても書けるものではないと思う。「嵐が丘」をいま書くことができる、というのはほんとうに貴いことだと思う。文体も読みやすい。あまりにも読みやすいと思う。「文体が読みやすい」というのはほんとうは異常なことで、文章は「気持ちやまわりで起こっているものごと」をちくいち伝えようとすると速度のバランスが崩壊して、ジョイス「ユリシーズ」にたどりつく。「ユリシーズ」なんて読めたものじゃない。だからほとんどすべての小説家はなにかを表現するためにうそのことを伝えている。そうしないとわたしたちが読むことができないからだ。文章を読むということはだれかの書いたうそを読むこと以上の意味を本質的には持っていない。
「文体が読みやすい」とはわたしはまずぜったい小説については言わない。絵画について「見やすい絵画だね」と褒めないなら小説についても言うべきではないとわたしは思う。でも「本格小説」についてわたしが「文体が読みやすい」と言うのは「文体が読みやすい」ということがこの小説にとって特異だからだと思う。「文体が読みやすい」がなぜ特異なのかというと、それは「本格小説」がほかの小説とちがうからだと思う。わたしはびっくりした。それは、「文体が読みやすいかどうか」という問いかけを無視できるほどに「本格小説」以外の小説がおなじ書かれかたをしているということかもしれないからだ。
 国立西洋美術館で「ゴヤ―光と影」を見た。展覧会的には素描や版画がおおくて、わたしはだいたい素描と版画はすべてとおりすぎていくだけのわたしだから、あまり見るものはなかったけれど、左はんぶんは手をぬいただろうと思わずつっこみたくなるほど右はんぶんがきれいな「着衣のマハ」、日本中のショタコンたちを熱狂させたともっぱらのうわさの「スペイン王子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像」がちょうかわいかったからうれしかった。
 有楽町までいって、喫茶店で日記を書いて、それからヒューマントラストシネマでワン・ビン「無言歌」を見た。五反田団に「生きてるものはいないのか」というただ舞台上のひとたちがなんの意味もなくとつぜん死んでいくだけの演劇があるけれど、「無言歌」もおなじようなものだと思う。ただ、カメラのなかでひとびとが死んでいくだけだった。彼らは疲れて、よわりきっていて、ひとつ動くたびにうめき声ををあげて、わたしはそこまでにんげんの残骸のようになってしまったひとたちを見つづけたことはなかった。食べものはなく、ほかのひとが吐いたものでまだ消化されていない部分をひろって食べている男のひとがいた。たとえばそれはそういう映画だった。他者の吐瀉物のなかからすら食べられる部分をひろいあつめているような、そういう映画だった。かなしい。




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