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「新種発見」@新世界

2012.01.15(23:19)

「卵」「ミルク」「蜂蜜」 [DVD]「卵」「ミルク」「蜂蜜」 [DVD]
(2011/11/25)
不明

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 1月5日(木)

 会社にいった。おそらくは会社にいったはずだけれど、それはなにもとくべつなことではなくて、とくべつなことではないということはいろいろなものごとが腐っているということなんだろうと思った。
 朝いちばんにK課長に「『バクマン』読んだことある?」と訊かれた。「ないです」と言った。「読みたいと思う?」と訊かれて「はあ」と答えた。にこにこして去っていった。それから彼の口から「バクマン」の単語がでたことは1度もない。


 1月6日(金)

 会社にいった。金曜日だからそれはいくよと思った。


 1月7日(土)

 土曜日だった。あんまりにもうっかりしすぎていて夕方まで眠り、身体が痛かったからもういっかい眠った。
 村上春樹「ノルウェイの森」を読みおえた。


 四月が終り、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかった。五月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけにはいかなかた。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で、僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて、歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとに鈍い痛みを残していった。
 そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。春の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。


 わたしはずっとこの世界を美しいものだと錯覚するためだけに日記を書いてきた。ほんらいのわたしの日常がどれだけみじめでつまらなくても、日記のなかでそれが美しかったり、かわいかったりしていれば、過去を思ったときにわたしはわたしの日常を美しかったりかわいかったりしていたと錯覚できるかもしれないと思った。美しければそれが錯覚でもいいと思った。わたし自身はどんなにくずでもいいからすくなくともわたしの錯覚は美しくあってほしかった。
 日記を書くということは死ぬ準備をするということでしかない。


 1月8日(日)

 ぐうたらしながらでかけて、シネマート新宿でアミール・ナデリ「CUT」を見た。映画館にはいったらいきなり外国人がでんと待ちかまえていて、受けつけでチケットを買ったときに「ナデリ監督がお見えになっていますからサインをいただけますよ」と言われたからそれがナデリ監督だった。わたしは苦笑いをして去っていった。好きなのかどうかも知らないひとにサインを頼む勇気はなかったし、なんだかいろいろなものがこわかった。
「CUT」は映画大好きな西島秀俊が借金返済のために殴られ屋として殴られつづけるという話で、すごくおもしろかった。西島秀俊は「いまの映画はエンターテインメントに堕落した糞だ」と拡声器をもって街なかでアジテーションをくりかえしていた。そして彼が借金返済の最終日に殴られつづけるなか、映像にあわせて彼の好きな映画ランキングベスト100がえんえんと発表されていって、とりはだがたった。アミール・ナデリは「この映画は日本でしか撮れなかった」と言っていた。「秀二(西島秀俊)は映画を救うラストサムライだから」と。
 西島秀俊がダッシュで黒澤明のお墓にかけつけるシーンがあって、鈴木卓爾が「そういうシーンでもっと笑ってくれたらいいと思う」と言っていた。彼の言うことはおそらくはただしいけれど、鈴木卓爾はここで「観客の映画を見るレベルが低い」と言っているようにしか見えなかった。(それなりにシリアスに見える)映画について笑う、あるいは笑いとばすということは「考えさせられる映画だ…」と言うことよりもはるかにおおきな受容を必要としていると思う。わたしはあんまり言わないように意図的にしているけれど、作品があればそれにはもちろんつくりての力量があって、それを享受するほうにも享受のしかたの力量があると思う。それは、芸術をふくんだ「作品」と呼ばれるものがけっきょくのところわたしたちの世界をすこしずつ美しくしていくという存在であるという立場をとるなら不幸なことかもしれないけれど、力量はある。その作品を笑いとばすということは、その作品についてまじめに考えることよりもずっとずっと力量が必要とされる。そして、それはわたしたちがどの程度その作品について許せるかと言いかえられるものだと思う。けっきょくのところ、タルコフスキーの映像が美しいということすらわたしたちは許していかなければいけない。そして監督が観客になにかを許すことをおおやけにしないまま訴えるということで映画と観客の貧しさを救おうとするそういうやりかたがあるとすれば、それは「CUT」のなかで西島秀俊がおこなったことよりももっともっと、いやしい。


 1月9日(月)

 ぐうたらしながらでかけて、早稲田松竹でセミフ・カプランオール「卵」「ミルク」「蜂蜜」の3本を見た。起きたり眠ったりしながら見ていたけれど、もっともすばらしいのが「蜜蜂」だと思う。エリセを思わせるぐらい映像がくっきりしていてきれいだった。トルコ映画だけれど、部屋の壁紙なんかが青くてきれいでびっくりした。
 ほかはずっとドストエフスキー「罪と罰」を読んでいた。この小説のおもしろさはちょっととんでもないし、ソーニャの美しさ、ラズミーヒンとスヴィドリガイロフのかっこうよさったらないと思う。


 1月10日(火)

 会社にいった。


 1月11日(水)

 会社にいった。


 1月12日(木)

 会社にいった。


 1月13日(金)

 朝から病院にいって、「11時に出社します」と言っておいたけれど病院にいったらわたしひとりしか患者さんがいなくて、10時すぎには会社についた。
 三角みづ紀「カナシヤル」と水無田気流「Z境」をひさしぶりに読みかえした。


 1月14日(土)

 六本木の新世界まででかけた。
 酒井幸菜がめあてだったけれど、あだち麗三郎がすばらしかった。天才という言葉がなにかの褒め言葉になるとはかぎらないという前提を持って言うけれど、たぶん彼はほんとうに天才なんだろうと思う。
 表現(hyogen)の音で酒井幸菜が踊っていた。わたしが酒井幸菜を好きなのはきっと酒井幸菜が表現しようと意志しているからだと思う。表現者がみんな表現しようと意志しているわけじゃない。こういうライブやらを見ると世界全体が薄皮1枚だけゆたかになったように思う。美しいものがあってよかったと思う。




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