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言文一致体と3D映画

2015.03.04(23:57)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)
(1978/07/20)
ドストエフスキー

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 3月3日(火)

 朝おきてドトールにいって日記を書いた。それからシネスイッチ銀座までいってゴダール「さらば、愛の言葉よ」を見て、電車にのって帰った。「カラマーゾフの兄弟」をずっと読んでいた。近くにこどもたちがいて、こどもたちは俺PKちょううまいよとかそんなことを言っていた。
「さらば、愛の言語よ」は「ソシアリスム」とおなじでどういう物語なのかやっぱりまるでわからなかったけれど、映像を見ているとどきどきしてしまう。「世界泥棒」のなかであやがアンゲロプロスの映画を見ながら、なにがおこっているのかわからないけれど、たいせつなことがうつっているような気がする、そしてそれだけが気持ちがいい、みたいなことを言っていたけれど、そういう感じがする。
 物語を理解できない、ということを前提にすればこの映画はとてもたんじゅんで、この映画には映像と言葉と音楽と編集しかない。そして、けっきょくは映画とはそれだけのものなんだと思う。それでも、わたしたちが映画を見るときにはそこには映像と言葉と音楽と編集以外の「なにか」があるようにいつも感じてしまう。そしてわたしたちが見ていると思っているものはその「なにか」であって「映像と言葉と音楽と編集」ではない。これは映画だけの話ではなくて、小説でもおなじで、小説はけっきょくのところ文章でしかないし、その読みかたもただ文章をうえからしたに読んでいくだけしか本来的にはありえない。でも、わたしたちはそれよりももっとむずかしいことをやろうとして、それができなくて、そのことを「理解できない」という表現でまとめてしまっているようにときどき思う。
 わたしたちが「理解できない」と思うとき、その理解できない対象は作品のなかにあるのではなくてわたしたちのなかにある。「理解できない」というのは孤独な感情だけれど、それは、わたしたちがその作品からつきはなされていると感じるからではなくて、わたしたちがその作品にふれてさえわたしたちのなかに徹底的に閉じこめられていることを無意識に感じてしまっているからなのかもしれない。
 3D映画というものに、すくなくともわたしはこれまでに3D固有の価値を感じたことはなかったし、端的に言えば「さらば、愛の言葉よ」でもやはりおなじだった。右目視点のカメラと左目視点のカメラがそれぞれ剥離していってふたつの像がかさねあわされているあの場面を見てもわたしはそうだった。それでも、この映画はわたしがとてもひさしぶりに見た3D映画だったし、なにかを語りたいと思ってしまうのは、さらば、愛の言葉よ」の3D映像に見られたところどころのいびつさだった。「さらば、愛の言葉よ」ではあきらかに縮尺が狂っている映像がいくつもうつしだされている。裸の男の足首、柵の向こう側で柵にかたほうの手をかけている女のひとの手、たとえばそれらはあきらかにわたしたちがふつうに知っている一般的な絵画の遠近法を逸脱している。これがいまの3D映画の技術的な問題なのか、あるいはゴダールがわざとそのような撮りかたをしているのか、ふだん3D映画を見ないわたしにはわからないけれど、重要なことはその遠近法の逸脱こそがわたしたちに違和をあたえるということだと思う。
 どんなに写実的な絵画も、写真も、実写映画も、わたしたちはそれが現実ではなく、絵画であって写真であって映画だということを「わかる」ことができる。わかる、ということはわたしたちはそこにうつしだされたものと現実のものの差違を知っているということで、けれど同時に、わたしたちはそれらのものをあたりまえに現実的なものだと認識している。だから、わたしたちは遠近法的な世界を、つまりは数学的作図によってつくりだされた世界をとても現実的に見つめている。重要なことは、けっきょくのところ写真にうつしだされた風景そのものなんてこの世界の現実のどこにもありはしないのに、わたしたちはその風景がこの世界の現実のどこかにあるとほとんど疑いもなく思っているということで、だから、わたしたちが知っている現実とは現実的なもののことではなく、その現実を見つめているわたしたちの現時的な見かたなのかもしれないように思う。
「さらば、愛の言葉よ」の3D映像はその意味で一般的な現実的風景からは遠ざかっている。すくなくともゴダールの3D映像ではものとものとがそれぞれの部分部分ですこしずつずらされている。それは、けれど平面的な世界のうえに構築された孤独なずれであって、世界全体がそうなっているわけではなく、わたしたちは、どんなに3D映像を見たとしてもそれを現実と見まちがえることはいまの技術水準ではおそらくはないだろうと思う。それは、その映像がけっきょくのところ平面のうえにのみ構築されているからというたんじゅんな理由にすぎないのかもしれない。でも、重要なことは、3Dになったからといって、つまり、現実の形式に近づいたからといってそれらが現実そのものに近づくわけではない、ということだと思う。
 柄谷行人は、日本語の言文一致体は当時の話し言葉を書き言葉にうつしかえたものではなく、当時の小説家たちによって創作された言語だ、と言った。すくなくとも、それぞれの地方の方言でしゃべっていたおおくのひとたちにとってその言葉はまったくリアルなものではなかった、と。おなじように、近代遠近法によって描かれた絵画も特殊な技法によって創作された絵画だし、3D映画も特殊なカメラによって創作された映像でしかない。だから、その価値をはかるものは「より現実的かどうか」という問題ではなく、もっとべつのものであるようにわたしは思う。日本近代小説のはじまりは、その目的は、たんじゅんに言えばにんげんの感情をありのままに描くことだった。わたしたちは感情を描くために創作された言葉によってなにをしゃべりえるんだろう。そして、にんげんの感情というものがその実際として創作されたその文体から創造されたものだとしたら、わたしたちの感情とはほんとうにはどんなものとしてあるんだろう。そして、わたしたちがつくりだした映像はわたしたちのなかになにを創造するんだろう。
 こどもたちに言葉を教えるまえにカメラを持たせればなにかが変わるだろう、かつてゴダールはそう言った。こどもたちがパンを食べたいときにパンと言うのではなく、こどもたちはパンをそのカメラで撮ることになるだろう、と。このとき、こどもたちに語られたパンとカメラによって撮られたパンはそのものとしておなじものだろうか。「芸術的」ということの意味はそのパンとパンの差異へのまなざしにすぎない。


 3月4日(水)

 会社にいった。会社にいってしまった。なんだかよくわからないけれど仕事がいっぱいあって、それでもわたしは屋久島で買ってきたたんかんジュースなんかをあたりにくばっていた。
 帰りにモスバーガーにいって日記を書いた。煙草をやめようといちにちにいっかいは思っているけれど、やめてはいない。このあいだ歯医者さんにいったとき、煙草を吸っていますかと訊かれて吸ってますとこたえて、やめたほうがいいですよ、と言われた。知ってるけど、と思った。




わたしがだれかを愛するやりかた

2015.03.04(01:03)

現在地現在地
(2014/11/20)
岡田 利規

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カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)
(1978/07/20)
ドストエフスキー

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 2月15日(日)

 屋久島になにがあるのか知らなかったけれど、白谷雲水峡があるらしかった。
 津村記久子「君は永遠にそいつらより若い」を読んだ。


 2月16日(月)

 会社にいった。


 2月17日(火)

 会社にいった。


 2月18日(水)

 会社にいった。


 2月19日(木)

 会社にいった。


 2月20日(金)

 会社にいった。岡田利規「現在地」を読んだ。


 2月21日(土)

 どうやら縄文杉も白谷雲水峡も登山的な場所らしいということを知っておののき、登山グッズを買ってきた。ジーンズはだめぜったいと書いてあったけれどジーンズしか持っていないのでしかたなく買いにいって、リュックサック的なものももちろん持っていないのでしかたなく買いにいった。
 デジカメを買いにいったはずだけれど、どうしてか手ぶらで帰ってきた。なにがおこったのかよくわからなかった。とりあえずAmazonでデジカメを買った。
 いいかげん飛行機のチケットとホテルを予約したほうがいいんじゃないのか、ということにおたがいに気づいて、予約した。


 2月22日(日)

 歩いて1時間くらいかかるイオンモールまでてくてくてくてく歩いていって登山用の靴とかレインコートとか靴下とかザックカバーとか速乾性のシャツとかを買ってきた。買い物をしただけでつかれたのでモスバーガーにいって金子武蔵「ヘーゲルの精神現象学」を読んで、それから帰った。


 2月23日(月)

 会社にいった。小野正嗣「九年前の祈り」を読んだ。


 2月24日(火)

 会社にいった。


 2月25日(水)

 縄文杉には朝暗いうちにいくから懐中電灯が必要だということを知って懐中電灯を買いにいったのに、気がつくとユニクロにいた。ユニクロでは懐中電灯は売っていなかった。


 2月26日(木)

 羽田空港までいって飛行機にのった。おおきい荷物はいったいいつ預かるんだろうなあと思いながら保安検査場を通過したら、なんだかもう預けられないような雰囲気がただよっていた。飛行機にのった。飛行機は空を飛んでいて、わたしはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた。友達は大阪だから鹿児島空港で合流して、ぶたを食べて、バスにのって港までいった。港には海と船があった。屋久島についたけれど、ホテルの場所がふつうにわからなかった。友達が、こっちだ、と言うからついていったらホテルがあった。すごいことだと思った。レンタカーを借りて首折り鯖のお寿司を食べたりした。ホテルにはテレビがあって、だいたい2ヶ月ぶりくらいにテレビを見て感動した。友達はパズドラをしていた。ねむった。


 2月27日(金)

 朝おきたら暗かった。わたしは免許証がどこかにいってしまって持ってきていなかったので友達が運転をした。屋久島には信号がなかった。山道をぐりんぐりんのぼって登山口でおべんとうを食べた。トイレにいっておこうと言ってトイレにいったけれど、あとでそれが女子トイレだったと気づいた。どうりで、と思った。圧倒的にオフシーズンだからひとはまばらで、だれかについていければ道もわかるでしょ、と思っていたけれど、そのだれかなんてほとんどいなかった。こっちじゃね、と思った方向につきすすんでいくと山のなかで光がなくて懐中電灯を照らしながらてくてく歩いた。てくてくてくてくてくてく歩いた。トロッコ道だったので死体を見つけにいく気分でテンションがあがって、落ちたら死ぬな、と思う橋をいくつか歩いた。てくてくてくてく歩いた。もうそろそろつくんじゃないか、と思ったところ、つまりつかれきったところでまだ8ぶんの1くらいだった。てくてくてくてくてくてく歩いた。ひとはいったいなんのためにこの道を歩くんだろうかと思いながら歩いた。てくてくてくてくてくてく歩くとそのうちにもうそれ道じゃないよねというところにたどりついて、もしかしたら生きて帰れないかもしれん、と思った。道じゃない道をがつがつがつがつのぼりはじめて、がつがつがつがつがつがつのぼっているとそのうちに縄文杉にたどりついた。縄文杉はつまり、おおきい木だった。見たのでごりごりごりごりごりごり山をおりて、トロッコ道をてくてくてくてくてくてく歩いて帰った。ひとはなぜこの道を歩くんだろうか、この道を歩くことでそのさきに輝かしい未来が待っているというのだろうか、と思いながら歩いた。鹿がいた。テンションがすこしだけあがった。そしてついた。帰りの車のなかでふつうにねむり、鹿の肉を食べた。友達はくさみがあると言っていたけれど、わたしには肉の味がわからなかった。友達はパズドラをやっていた。帰ってお風呂にはいってねむった。


 2月28日(土) 

 朝はやくおきて白谷雲水峡にいこうと言っていたけれど、ふつうにねぼうした。そして登山口までついたけれど、ほんとうにだれもいなくて、わたしたちはなぜか車のなかでねむった。夜明けごろにぼちぼちおきて、てくてくてくてくてくてく歩いた。森は緑で、たくさんの緑色があった。緑色と緑色のあいだをしずかに川がながれていて、水の色は繊細に透きとおっていてそのおくの深い色をした土の色が見えた。その場所も苔におおわれていてときどきほそい緑色の先端が水のなかでするすると動いているのが見えた。雨が降っていて、小雨だったり大降りだったりしたけれど、木がおいしげっていてわたしたちのところまではいつもほんのすこしだけしか降りそそいではこなかった。鹿がいて、友達は戦ったら負けるな、と言っていた。なぜ戦おうとするんだろうかと思った。圧倒的にオフシーズンだったからほとんどだれもいなかった。のぼるまえからつかれきっていたわたしたちはおおきな木のしたの雨に降られない場所で座って写真を撮って休んでばかりいた。友達は父親のもとから盗んできた7万円の一眼レフデジカメを持っていて、いっぽうわたしは1万円のデジカメだった。ぶれる、と言ったら、おまえがぶれているんだよ、と言われて、そうかもしれないと思った。友達の一眼レフデジカメの写真がすばらしくて、友達はどうだい俺の写真の腕は、と自慢していて、わたしは、すごいなおまえのカメラ、と言ってそれを讃えた。友達は笑って、カメラの腕は金で買えるのさ、とまるで俗物のようなことを言っていて、わたしはおおいに同意した。ほかにもいろいろいこうと思っていたけれど、途中から山々しい場所をのぼりつづけてすっかりつかれて、お弁当を注文することもわすれてカロリーメイトしか食べていなかったらそれもあってさらにつかれて、5時間くらいで往復できるはずのところを7時間くらいかけてわたしたちはのぼっておりて、帰った。ごはんを食べてお風呂にはいって部屋でお酒を飲んでねむった。友達はパズドラをやっていた。


 3月1日(日)

 おきてごはんを食べて、港までいった。友達はパズドラをやっていた。船のなかで本を読むと気持ちが悪くなるかもしれないからわたしはねむっていた。鹿児島についてラーメンを食べて、鹿児島空港で飛行機にのって帰った。友達はパズドラをやっていた。
 羽田について、わたしはてきとうに家に帰った。夜、ねむるまえにドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。わたしがとても好きだったひとが、ひとは知性がなければだれかを愛することすらできない、と言っていたことを思いだした。
 現代文学でも近代文学でも「それを読んでおもしろい」と思うためには、すくなくともわたしには練習が必要だった。おもしろくないと思いつづけながら読んでやっとおもしろいと思えるようになった。だから、わたしはすくなくとも才能や感性を欠いているにんげんが文学をおもしろく読むためにはそういうことが必要だと思っているし、きっとこれからも思いつづけるだろうと思う。わたしにとって文学はそういう対象でありつづけるだろうし、だからときどき文学がおもしろいと思っていることそれじたいがただの思いこみなのかもしれないと思う。わたしはただわたしの文学を飼いならしているだけだ、というような気がする。でもそれと同時に、そんなふうにしないですますことができる対象が世界にどれだけあるだろうか、というふうにも思う。


 いったいロシアの百姓なんぞが、教養のある人間に匹敵するような感情を持てるっていうんですか? 教養がないから、百姓は何の感情も持てるはずがありませんよ。


 知性が、あるいは思想や教養がなんのために必要なのか、それは文学の必要性とともにたびたび語られてきたことだと思うけれど、スメルジャコフは教養がないにんげんはなんの感情も持てるはずがないと断言している。わたしは思想や教養が文学を読むことで身につくとは言わないし、どちらかといえば、文学から得られるものはなにもない、という立場にたってきたと思っている。けれど、ひとは知性がなければだれかを愛することすらできない、と言ったひとのことをわたしはまだ覚えているし、その言葉だけはわすれたくはないと思っている。わたしたちはほんとうにただ動いてなにかをよろこんだりかなしんだりする、ただそれだけのことすらもわたしたちがそれまで育んできたものにたよらなければいけないのかもしれないと思う。知性が、思想や教養がただだれかを愛するためにあるものだとしたら、そしてかつてわたしがわたしのなかで文学を飼いならしたように、これからのわたしが知性や思想や教養を飼いならすことしかできないとしたら、そしてだれかを愛することがそうやって飼いならされたもののうえでのみありえることだとしたら、わたしがだれかを愛するやりかたは文学を飼いならしたやりかたとなにも変わりはしないのかもしれない。


 3月2日(月)

 朝おきて、お風呂掃除をはじめた。でもやめて、旅行でつかれた、ということにしていちにちじゅうねむっていた。いいかげんやらなくては、と夜中にごそごそと確定申告の書類をつくりはじめた。平成26年から白色申告者の帳簿の保存が義務化されるということを1年まえくらいに知ってやよいの白色申告オンラインで帳簿をつけはじめていて、でも2ヶ月で飽きてやめていたから、わたしはためこみまくった領収書をひっぱりだしてひたすらうちこんで確定申告の書類をつくりはじめたんだけれど、なにかおかしい、と思った。これ、もしかしたら事業所得者用のソフトなのかもしれない、と思った。わたしは原稿料とかは雑所得として申告しているから、もしかしてこんなものはいらないのかもしれないと思った。帳簿もいらないのかもしれないと思った。わたしのいままでの努力とか努力しようとしていたこととかはいったいなんなんだろうと思った。それから、国税庁のホームページでふつうにつくりはじめて、飽きてすぐにねむった。Mr.Childrenの曲は1年ぶりくらいで聴くととてもいい曲に思えた。




言葉で表現できる水準の対立

2015.03.04(00:00)

金を払うから素手で殴らせてくれないか?金を払うから素手で殴らせてくれないか?
(2014/03/27)
木下 古栗

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来たれ、野球部 (講談社文庫)来たれ、野球部 (講談社文庫)
(2014/03/14)
鹿島田 真希

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 1月21日(水)

 会社にいった。


 1月22日(木)

 会社にいった。


 1月23日(金)

 会社にいった。


 1月24日(土)

 矢部崇「紗央里ちゃんの家」を読んだ。この小説は、たとえばカフカの小説に似ているように思う。そのできごとが現実に準じた現実性を保有しているわけではないのに、できごとのいちいちが持つ質感は現実に準じた現実性だけをかろうじて保有していて、だから、おそらくはそれだけが小説の現実性を露出させているように思う。あとは会話文の書きかたが、このひとはおそらくこの会話文を自分でも支配できないままに書いているように見えるけれど、それでもとてもうまいと思う。


 1月25日(日)

 木下古栗「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」を読んだ。この小説は中原昌也の小説に似ていて、わたしは読んでいるあいだ何度か笑った。こういう小説のおもしろさ、というものはいつも奇妙で、こういう小説がもっとはばひろく読まれたらいいのにと思うけれど、わたしはなにもしないんだろうと思う。ある時期からの高橋源一郎の小説も、そして中原昌也の小説も、もともとはブコウフスキーからきているものだとわたしは思っていて、けれど高橋源一郎は書くことにまえむきで中原昌也はぎゃくにうしろむきだと思う。でも、けっきょくはそのどちらも、あるいは木下古栗の小説も質的にはおなじちからをそのうちに秘めているように感じられる。たとえば、村上春樹が書くことにまえむきだからといっても高橋源一郎の「まえむき」ということとはまるでちがった意味あいを持っていて、だから、これはいつもそうだけれど、重要なことは言葉で表現できる水準の対立を避けつづけることだと思う。それは「うしろむき」なことなのかもしれないにしても、すくなくともわたしが感じれるせつじつさというのはそのなかにしかないように思う。
「言葉で表現できる水準の対立を避ける」ということはおそらくすべてを愛するということだけれど、それはきっと論理的な話でしかないし、論理的に考えれば、すべてを愛するときすべてのものはそのときすでに愛を失っている。問題はそのなかでなおなにかを愛するやりかたで、そのなかにはいやおうなく差別的な感情が含まれている。愛するということが絶え間ない差違化だとすれば、そこにはもう純粋なものなんかないように思えるし、ぎゃくに、差違化にたいする感情の希薄さこそが純粋なものとも呼べるようにも思える。


 1月26日(月)

 会社にいった。


 1月27日(火)

 会社にいった。会社の試験の勉強でもいいかげんにしようかしらんと思ってドトールにいくと、きみTwitterのアカウントのっとられてるよ、というおそろしいメールががりがりとどいていたことに気づいて帰った。いきなりサングラスとかすすめてなに考えてるの、とか、マッカーサーになれっていうの、とか、そんなことを言われていて、どうしようかと思った。俺じゃない、俺じゃないよ、と思った。よくわからないけれど、Twitterのほうで自動的に排除されていたらしくて、わたしはわたしもどきが撃ちはなったツイートを見ることはできなかったけれど、レイバンのサングラスをあらゆるひとにおすすめしていたらしかった。みんな、レイバンのサングラスを買おう!


 1月28日(水)

 会社にいった。モスバーガーにいって会社の試験の勉強をした。


 1月29日(木)

 会社にいった。モスバーガーにいって会社の試験の勉強をした。


 1月30日(金)

 会社にいった。


 1月31日(土)

 柴崎友香「きょうのできごと、10年後」を読んで、中村文則「何もかも憂鬱な夜に」を読んだ。おもしろかった。


 2月1日(日)

 村田沙耶香「マウス」を読んだ。


 2月2日(月)

 会社にいった。夜中に友達から電話でかかってきて、旅行にいこうということだった。友達は沖縄か種子島か屋久島か蟹と言った。蟹と種子島はないなとわたしは言った。沖縄もないなとわたしは言った。だから屋久島にいくことにした。


 2月3日(火)

 会社にいった。


 2月4日(水)

 会社にいった。ヴォネガット「母なる夜」を読んだ。


 2月5日(木)

 会社にいった。木下古栗「いい女vs.いい女」を読んだ。


 2月6日(金)

 会社にいった。鹿島田真希「来たれ、野球部」を読んだ。わたしはこの小説を圧倒的におもしろいと思うけれど、それについてはなにも言えない。


 2月7日(土)

 ドトールにいって依頼されていた原稿を書いて、それからモスバーガーにいって依頼されていた原稿を書いた。


 2月8日(日)

 ドトールにいって小説を書いて、それからモスバーガーにいって小説を書いた。


 2月9日(月)

 会社にいった。


 2月10日(火)

 会社にいった。


 2月11日(水)

 ドトールにいって小説を書いて、それからモスバーガーにいって小説を書いた。


 2月12日(木)

 会社にいった。


 2月13日(金)

 会社にいった。


 2月14日(土)

 屋久島になにがあるのか知らなかったけれど、縄文杉があるらしかった。
 柴崎友香「ドリーマーズ」を読んだ。「ドリーマーズ」はいちどどこかで読んだ記憶があるけれど、わたしは読んだことがないと思いながらこれを読んでいて、だから不思議な気持ちがした。
 酔っぱらっている、という状態の「わたし」を書くとき、わたしたちはそのときの「わたし」を外面的なものから書いてしまうように思う。それは足がふらふらしているとか気持ちがわるくて吐いてしまったとかそういうことだけれど、たとえば中村文則「何もかも憂鬱な夜に」はその感覚としての不快さを前面におしだしていて、それは「おそさ」とか「にぶさ」に直接つながっている。わたしたちが知っているはずの世界のありかたがわたしたちが知っているものよりも「おそく」そして「にぶく」あって、だからこそわたしたちはその感覚の原因としてあるだろう世界の粘膜めいたものに不快さを感じてしまうように思う。それを書きこめば中村文則が書いたようになって、それが「わたし」にとってすらもよくわからない憂鬱な夜になりかわるように思う。けれど、わたしたちはわたしたちが酔っぱらっているそのまえの状態からすでにその憂鬱にとらわれていて、酔っぱらう、ということはその憂鬱さを解決することにはならない。わたしたちが世界の粘膜にふれたところでその粘膜が消えるわけではなく、「何もかも憂鬱な夜に」の彼はおそらくはそのことをすでに知ってしまっている。
 いっぽうで、柴崎友香「ドリーマーズ」の酔っぱらった感覚というのは「はやさ」と「にぶさ」にむすびついている。世界は加速していて、そのなかで「わたし」はおきざりにされそうになりながら加速していて、その加速が彼女にほとんど絶対的なたのしさをあたえている。彼女には過疎化した世界のほつれめからあたたかい光が射している。重要なことは、わたしたちにとっての世界がそうでありえるということを知ることだと思う。「ドリーマーズ」のなかで彼女はそこでおこっていることのちいさなことがらのいちいちに感応していて、それだけが世界のたしかさとつながりえるように思う。




あらゆる意味を剥離されたにんげんあるいはにんげんの身体そのものから発露されるグロテスクなもの

2015.01.22(01:03)

パノララパノララ
(2015/01/15)
柴崎 友香

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 野崎まど「know」
 深水黎一郎「ウルチモ・トルッコ」
 以上の物語内容に結末をふくめて言及しています。

 1月5日(月)

 会社にいった。


 1月6日(火)

 会社にいった。


 1月7日(水)

 会社にいった。歯医者にいったら歯をごりごりされた。


 1月8日(木)

 会社にいった。


 1月9日(金)

 会社にいった。

 
 1月10日(土)

 会社にいった。会社にいってしまった。
 家に帰って柄谷行人「日本近代文学の起源」を読んだ。
 SFは一般的にわたしたちの未来の世界のことを描いているけれどそれは「わたしたちの未来の世界」のうちがわで描かれているわけじゃない、ということを思った。たとえば野崎まどの「know」ではいまから50年ほどあとの世界が描かれているけれど、その世界はその世界のうちがわから描かれているわけじゃなくて、いま現在のわたしたちの視線からその世界のことが描かれているように思えて、そしてそうであるならSF的であるということはわたしたちが描いているその視線のありかたにつけられた名称でしかないようにも思う。
「know」では主人公の連レルがひとびとの頭に電子葉が生めこまれた世界のありかたを描写している。彼はそうなった社会のありようとか電子葉が埋めこまれたひとびとがその電子葉をつかっている様子をいろいろと語っているけれど、未来の世界のひとびとがそうであるようなありかたを彼がしているわけじゃないように見える。わたしたちが科学的にあるとか、コンピュータが進化するとか、そういうものはけっきょくのところわたしたちが機械化されてなお機械であるということを意識しないというかたちでなされていくしかなくて、それは端的にいってこれからの科学的なものとか機械的なものはわたしたちがスマートなかちであれるようなものとしてしか進化していかないだろうということだけれど、でもわたしはそんなふうに漠然と思う。そしてそうであるならわたしたちが電子葉をつかうときわたしたちは電子葉をつかうことを意識しないと思っていて、わたしたちが他人としゃべったりするということをいちいち意識しないということがそうであるようにそのような未来ではそうなっているように思うし、もしもそうでないならそれはたぶん未来じゃないように思う。だから、電子葉をつかう、ということをそのつど意識していかなければいけない連レルは舞台の設定とははんたいにあくまで現代的な意識をたもちつづけているように見える。彼が見ている世界はわたしたちが想像しなかったような未来じゃなくて、いつかだれかが書いた小説やいつかだれかが見た映画なのかもしれない。この小説におけるほんとうの未来世界と呼べる世界というのはほんとうには最終章のなかでだけ描かれている死後の世界が既知のものとなった世界としてあって、そして、だからこそ作者も連レルもあの世界についてまったくなにも語らない。
 でもそれはべつにSFの欠陥というわけでもきっとなくて、ふつうに生きているわたしたちが未来を想像するときそこに想像されるものはいつも過去のものだし、それに、わたしたちが未来だと思っているものを未来のうちがわから見る場合、おそらくわたしたちはそれがSFだということに気がつくことすらできないんだろうと思う。


 1月11日(日)

 いちにちじゅう「ゼーガペイン」を見ていた。声、というか、しゃべりかたをもふくめた声という意味ではわたしは「lain」の清水香里や野津あおいや青柳いづみがほんとうにすごいと思っているけれど、「ゼーガペイン」の花澤香菜もほんとうにすごい。

 
 1月12日(月)

 いちにちじゅう「ゼーガペイン」を見ていた。おもしろかったと思う。


 1月13日(火)

 会社にいった。柄谷行人「意味という病」を読んだ。


 1月14日(水)

 会社にいった。柄谷行人「隠喩としての建築」を読んだ。


 1月15日(木)

 会社にいった。柄谷行人「内省と遡行」を読んだ。


 1月16日(金)

 会社にいった。柄谷行人「内省と遡行」を読んだ。


 1月17日(土)

 柄谷行人「〈戦前〉の思考」を読みながら電車にのって、横浜までいって柴崎友香「パノララ」を買った。STスポットで鳥公園「空白の色は何色か?」を見にいくつもりでお友達と待ちあわせをしていて、でもお友達はさいふをわすれてわたしはさっさとさきにいって見ていた。見おわったあとにいっしょにごはんを食べた。お友達はずっとニーソックスさいこうと言っていた。なんだろうこのひとはと思ってばかりいた。
 たとえばわたしたちがある作品を見てその作品について語る、ということはほんとうにはどういうこととしてあるんだろう、とときどき思う。わたしたちはわたしたちがその作品を見たということ、そしてそこで抱いた感情やその作品の放った印象やその作品の意味について語り、わたしたちはそのことを「その作品について語る」と呼ぶ。けれど、おおくの場合そこで語られているのはその作品を見たわたしたちの体験で、そうであるならわたしたちが語っているのは「その作品」ではなくてその作品を見た「わたし」なんじゃないだろうか、という気がする。でも、わたしはだから「たとえば主観をできるだけ排除して、『わたし』について語るのではなく『作品』について語ることこそがしんの批評だ」ということを言いたいわけではまるでないし、しんの批評があるなんて思ってもいない。わたしはただわたしたちの語りかたはけっきょくのところなにを語ったとしても「わたし」についての語りにならざるをえないありかたをしているかもしれないということを思っているだけで、だからわたしたちはなにを語ったとしてもわたしたちの物語を語ってしまうのかもしれない。けれど、重要なことはそのようなかたちで語られる「わたし」というものも「ありのままのわたし」というわけではもきっとなくて、わたしたちが作品を語るときの「わたし」はつねにその作品を語るその語りのありかたに縛られているはずだと思う。わたしはこれから鳥公園「空白の色は何色か?」についてサンプルをひきあいにだしつつ語ろうと思っているけれど、そうやって語られた「わたし」というものはサンプルを通過してきていて、それはサンプルについてなにかを考えたり語ったりした過去の「わたし」への参照としてあって、そんなふうにつくられた「わたし」は一回性の「わたし」ではなく複数の「わたし」としてあるように思う。そのときの過去の「わたし」が主観的存在なのか客観的存在なのかという問いにはたぶん意味はないし、わたしたちは主観と客観という対立的な概念があるように考えがちだけれど、客観というものも主観から生みだされたものとしてあるだけで、たとえば会社で仕事をすれば「客観」という概念が重視されるけれど、それはけっきょくのところ「わかりやすさの重視」と「数値化されたデータ(具体性)の重視」というものの言いかえにすぎなくて、それは技術的な問題としてあるだけで精神的な問題としてあるわけじゃない。重要なことはわたしたちはつねに「わたし」というものを作品を見るたびに構築しているということで、それを「仮想のわたし」として見るか「実体としてのわたし」として見るかはその価値観によっていて、そしてわたしたちの作品への語りがそのようなありかたをしているとするならば、そのときつねに「わたし」によって見られた作品は「わたし」に回収されることで忘却されつづけているかもしれない、ということだと思う。わたしたちが作品について語るとき、作品はわたしたちによって語られた「わたし」の部分として配置される。だからわたしたちはその作品をわたしたちの記憶にとどめるためにその作品について語るのではなく、その作品をわたしたちのなかにとりこみ「作品そのもの」を忘却するために語っているように思う。そのときわたしたちが愛しているのは「作品そのもの」ではなく「わたしたちに語られた作品」としてあって、そして「わたしたちに語られた作品」というものだけが「わたし」としてあるならば、わたしたちはいつも「わたし」だけを愛しつづけているんだろう。
 鳥公園「空白の色は何色か?」という演劇はグロテスクな作品だったと思う。グロテスクな演劇としてわたしが思いおこすのはサンプルの演劇だけれど、わたしが見たかぎり、サンプルの特徴は「にんげんの身体」と「もの」の境界を失わせていることだと思う。たとえばサンプル「永い遠足」では羽場睦子があんパンを胸につけてそれを乳房だと見なしていた。ここで重要なことは、おそらくわたしはここでそのあんパンにたいしてグロテスクなものを感じていたような気がする、ということだと思う。
 グロテスクなもの、というときそれは視覚的なもの不快さとしてうけとめられがちだけれど、そうじゃなくてわたしたちはそのものが持っている「意味」にゆらいしているように思う。たとえばかなしみホッチキスの「タオルケットをもう一度」というゲームでは、スーパーファミコンレベルのドット絵で描かれた登場人物たちが牛と交配されたり、内臓や脳味噌を露出させて殺されたりするけれど、その視覚的表現というものはグラフィックスレベルのたんじゅんな意味においてはリアルだというわけじゃない。それにもかかわらずわたしたちがそこにグロテスクさを感じるならば、きっとわたしたちはそのような視覚的な表現をされたものの「意味」そのものにたいしてグロテスクさを感じているように思う。つまり、わたしたちはそのグラフィックスから現実的にリアルな映像としての内臓や脳味噌を想像してそしてその想像されたものをグロテスクだと思っているわけじゃなくて、わたしたちはそのグラフィックスから現実的にリアルな映像を想像することなくそのグラフィックスそのものをグロテスクだという認識を持つことができているんだろうという気がする。おなじようにサンプル「永い遠足」においても、あんパンはただあんパンとしてあるだけでグロテスクなものとしてあるわけじゃなくて、きっとわたしはそのあんパンが彼女の乳房としてあることにたいしてグロテスクさを感じているんだと思う。たんじゅんな意味ではそのときあんパンは彼女の乳房の比喩としてあるかもしれないけれど、比喩というもののある種の機能は「本来は無関係な複数のものを関連づけることによって本来は無関係であるはずのその個別なものたちの意味や印象がたがいにまざりあったかたちで比喩されたもののうえで発露する」ということだとわたしは思っていて、でも、サンプル「永い遠足」においては比喩されたもの、比喩したものの区別はおさらくはなされていないように思う。それはたんじゅんにはこれが文章で描かれたものではなくて演劇だということによっているのかもしれないけれど、このとき、あんパンは彼女の乳房として比喩されていると同時に彼女の乳房はあんパンとして比喩されているようにわたしには見える。わたしが思う比喩の機能でいえばそれは基本的に単一方向的な機能としてあらわれていて、一般的に比喩されるものは比喩するものの意味や概念や印象だけを発露するものだと思う。たとえば「彼女の笑顔は花のようだ」という文章があったとすれば、それはもちろん花について語っているのではなくて彼女の笑顔について語っていて、花という概念や意味や印象だけがそれを語るにんげんによってとりだされているだけだと思う。だから、この文章では彼女の笑顔は存在しているけれどこのとき比喩している花じたいはどこにも存在していない。重要なことはサンプル「永い遠足」においてはこの単一方向的な流れがうちけされているということだと思う。彼女があんパンを乳房と呼ぼうと乳房をあんパンと呼ぼうともうおおきなちがいはなくて、このとき舞台のうえには実際のあんパンも乳房も物体として存在してしまっている。だから、きっとそれはもうすでに比喩ですらないように思う。このとき、舞台のうえには「あんパンとしての乳房」と「乳房としてのあんパン」が同時に存在してしまっていて、しかもわたしたちはきっと「あんパンとしての乳房」と「乳房としてのあんパン」をもうすでに区別することはできないでいて、そこに生じている意味と物体の乖離がわたしたちにグロテスクさを感じさせているんだと思う。
 鳥公園「空白の色は何色か?」という演劇においてもこのたぐいのグロテスクさはことこまかく埋めこまれている。登場人物は3人だけしかいないけれど、AはつねにAを演じるわけではなく、Aはおそらくはなんの意味もなくBやCを演じてしまうし、それだけではなく、テツオという人物は俺はもうテツオをやめると言って2000円で買ったどうでもいい仏像にテツオであるということを委託してしまう。これは外面的にはただの設定としてしかうけとれなくて、その舞台を見ているわたしたちも、そしてテツオの暮らす部屋にやってくる女の子ですらもテツオを演じている役者をテツオだと見なし、その仏像はテツオであることを委託されたただの設定としてのテツオだとしかうけとめられないで、わたしたちは舞台のうえに存在している意味と物体(人物)の乖離にたいしてグロテスクなものを思いうかべるだろうと思う。ここまではおそらくはサンプルがやっていることとおなじ作品のありかたをしているようにわたしには思える。でも、鳥公園「空白の色は何色か?」がおそろしいのはたぶんこれ以降にあって、仏像にテツオを委託したテツオという人物はそのあとあらゆる欲求を失って衰弱していく。彼はほとんどなにも食べないで(ときどき自分の排泄物を食べる)、睡眠もほとんどとらない。彼はだれも愛さないし、彼らが疑似的に形成している家族というかたちの意味すらもまるで理解できないと語り、他者を信頼するということがどういうことなのかまるでわかったことがないと語る。端的にいえば、彼はもうすでににんげん的であることをやめている。サンプル「永い遠足」において、羽場睦子は乳房はあんパンで、あんパンは乳房だという表現をとることができている。けれど、それはつまり暗黙に乳房というもの、そしてあんパンというものの存在の意味を前提としている。彼女がこう表現するとき、彼女の乳房には、あるいは彼女の身体にはなんらかの意味があるということを暗に言っているようにわたしは思う。鳥公園「空白の色は何色か?」がおそろしいのはおそらくわたしたちがそうやって前提としているにんげん的なものの意味を、にんげんの身体の意味をまったくとりさってしまっているところだと思う。終盤のテツオはおそらくすでになんの意味すらも持っていない。彼はなにかを語るけれど、すでにその語ることにも語られたことにもなんの意味はない。彼はなんの意味も持たないひとつの肉体としてそこにいて、そしてほんとうに彼はその舞台のうえに肉体としてただいるだけにすぎない。にんげんはただにんげんとしてそこにいるわけじゃない、という認識を鳥公園はわたしたちにあたえる。にんげんもにんげんの身体もつねに「意味されたもの」、あるいは「比喩されたもの」としてそこに存在していて、わたしたちやわたしたちの身体はありのままのものとしてそこにあるというわけじゃない。鳥公園はグロテスクだけれど、サンプルで表現されていたグロテスクさとはまったくべつのありかたとしてのグロテスクさを持っていると思う。ものから意味を転移された身体、身体から意味を転移されたもの、それはおそらくともにグロテスクだけれど、鳥公園のグロテスクさはあらゆる意味を剥離されたにんげんあるいはにんげんの身体そのものから発露されるグロテスクさだと思う。わたしにはすくなくともわたしたちから意味内容を剥離してありのままのにんげんになれ、なんてことは言えないし、言わない。けれど、わたしたちは意味を剥離されたテツオの身体をとおしてわたしたちの身体にまとわりついた意味、そしてその意味が身体そのもののよりも遥かに美しいこと、それらがほんとうにはいったいどういうことなのかを考えることはできるように思う。それがたとえ希望ではないとしても。


 1月18日(日)

 ドトールにいって文章を書いて、モスバーガーにいって日記を書いて、家に帰って柴崎友香「パノララ」をずっと読んでいた。


 1月19日(月)

 朝おきて柴崎友香「パノララ」を読みおえて、河出書房新社にいった。わたしはわたしが書いたものについてだいたいなんにもわかっていなくて、わたしが書いた文章でもどういう意味だろうと思ってばかりいて、だからそれはもしかしてまじめに考えたほうがいいようなものなんだろうかとときどき思う。
 家に帰って「NOIR」を見はじめて、安心して見られる作品だと思った。第1話からとくにもりあがる場面でもないのに音楽が鳴っていること、そしてそれが不愉快ではないありかたをしているということがいいと思う。そして、ミレイユが霧香と比較して弱すぎるような気がしてほんとうにだいじょうぶなんだろうかという気がした。あとはこのふたりがいっしょに暮らしていてもおたがいの名前をほとんど呼ばないところがいいと思う。4話まででたぶん霧香が1度か2度、そしてミレイユにいたってはたぶんいちども呼んでいなくて、この作品においてそれがリアリティをましているというわけじゃないけれど、現実的にわたしたちがだれかとふたりでいるときにおたがいの名前を呼びあうことはほとんどないとわたしは思っていて、作品のなかでそれがなされるとしたらそれはとくべつな意図があるか、あるいは映像というものがあらかじめない場所で考えられたことを映像にむりやりあてはめようとしているからだと思う。
 柴崎友香「パノララ」はわたしは奇妙な小説だと思うけれど、その奇妙さについてあんまりうまく言えないような気がする。柴崎友香の作品をわたしが好きなのはたんじゅんでそれは彼女が世界を美しいものとして見ているからだと思う。たとえば彼女の小説はほかの小説にくらべて小説のなかの人物が見ているものや人物が考えていることとその人物の抱く気持ちが直結していて、その気持ちの反映として世界が美しくそして鮮明にひらかれていくような印象があった。
「小説のなかの人物が見ているものや人物が考えていることとその人物の抱く気持ちが直結」しているということなんてあたりまえのことのようにも思うけれど、でもすくなくともいま現在つくられている作品のなかの人物はほとんどはたぶんそういう描かれかたをされていない。彼らは自分が「うれしい」と思っていてもきっと自分がどうして「うれしい」のかわかっていないし、あるいは、もっと言えば彼らが「うれしい」ためには彼らがうれしいためのなんらかのものを必要としていて、しかもそれはたびたび隠蔽されているように思う。そして、そうやって必要されたもの、必要とされてなお隠蔽されたものが彼らの感覚と彼らの見るものや彼らの考えるものを遮断していて、はんたいに、その遮断を消しさった場所で柴崎友香の小説はなりたっているような気がしていた。


 映画館は空いていた。いちばん後ろのいちばん端の席に座った。映画はおもしろかった。百貨店に入って、ずっとほしい地球儀を見に行った。五万円で、棚の同じところに置いてあった。わたし以外にほしい人はいないのかもしれないと思った。だからって安くはならなかった。作った人がすごいからだと思った。広い歩道橋を歩くころには暗くなっていた。人がたくさん歩いていた。一人残らず知らない人だった。誰もわたしを気にかけなかった。
 どこにでも行ける、と思った。わたしはどこにでも行ける。その意志があれば。
             ――柴崎友香「ビリジアン」


 たとえばこの文章では彼女が抱く感情のために必要なものはなにもないように見える。彼女はおそらくは彼女が抱く感情にたいしてなにも用意はしていないし、だから「どこにでも行ける」ような気がするんだとわたしは思う。「パノララ」を読んだあとからふりかえってみれば、ということだけれど、柴崎友香の小説がそうであったようなありかたがその世界への理解みたいなものだったように思う。いままでの小説の主人公が他者の考えかたとか気持ちを理解していたとか世界のありかたを理解していたとかそういうことじゃないけれど、ただ漠然とそういうことだけが世界への理解みたいなもののように思う。でも「パノララ」の主人公はたぶんそういうありかたとはぜんぜんちがうありかたをしていると思う。まとまりも中心も欠いた「パノララ」はつねに緊張みたいなものがずっと走っているように思う。でもそれは不穏さとか不気味さとかとはちがう。彼女はわたしから見たらだれともほんとうには親密ではないなくて、でもその緊張や世界や風景からほんとうに疎外されているわけでもなくて、ものすごくちいさな世界への理解みたいなものでどことなく親密としてある世界とつながっていて、たぶん、わたしはそのつながりかたが奇妙に見えているんだと思う。


 1月20日(火)

 会社にいった。深水黎一郎「ウルチモ・トルッコ」を読んだ。「読者が犯人」というトリックに挑戦した作品で、被害者は対人恐怖症で文章を読まれただけで苦痛を覚えるという設定となっていた。被害者は主人公の小説家に手紙を送っていて、そこには彼のいろいろな体験が書かれている。主人公の小説家はその手紙を新聞小説としてそのまま公開し、その新聞小説じたいが「ウルチモ・トルッコ」というこの小説だというメタ的なしかけになっている。そして、その新聞小説(=「ウルチモ・トルッコ」というこの小説)を多数の読者(=わたし)が読むことによって被害者は死にいたった。だから被害者を殺した読者(=わたし)が犯人となる、というしかけになっている。
 基本的に「読者が犯人」というしかけがむずかしいのはメタ的なことだと思っていて、このトリックが衝撃をあたえるには「その新聞小説を読んでいる読者」と「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」が同一だという意識じたいが問われると思う。「『新聞小説』=『ウルチモ・トルッコ』」という論理がいっぽうであって、だから「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」という論理がそこから導かれるわけだけれど、問題は「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」という認識を持っている「わたし(わたしたちを認識するわたし)」という存在がいるということで、この場合、わたしたちが通常の意味でいう「わたし」とは「わたし(わたしたちを認識するわたし)」のことであって「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」というのはこのときわたしたちにとってはほんとうには「わたし」じゃない。「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」というのは「わたし(わたしたちを認識するわたし)」がつくりだした「わたし」で、「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」が論理的に被害者を殺したとしても、「わたし(わたしたちを認識するわたし)」は彼を殺してはいないからわたしたちが彼を殺したというおどろきとしての実感を持つのはむずかしいし、小説のなかの被害者に等号でむすばれる現実レベルでの対象物はあたりまえにないから現実レベルの図式はくずれてしまう。「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』=『わたし(わたしたちを認識するわたし)』」というかたちでつなぐのがむずかしいというのがそもそもの問題なんだと思うけれど、メタ的なレベルでいえば、「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」をむすぶ「=」と「『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』=『わたし(わたしたちを認識するわたし)』」をむすぶ「=」は存在のありかたの次元がちがうから後者の「=」は作品内の論理ではけっしてむすばれないように思う。たとえばこの小説のなかで語られる四つ葉のクローバーの話、ああいう話がたぶんその後者の「=」をむすびえるという気がする。
 そして、わたしにとってはミステリにおける謎解きはたぶん広義での意味に変容にあると思う。AとBという犯人候補がいるとして、わたしはだいたい犯人はAでもBでもどちらでもよくて、重要なことはAが犯人だとされたときにその世界やその殺人やそれまであった感情がどんなかたちで変わっていくかということだと思う。謎なんてなかった、ということでもいい。謎をつくっているのは探偵で、犯人にとって謎はそもそも最初から謎ですらない。




そのときわたしたちが想像しなかったものをわたしたちが愛するための装置

2015.01.07(00:00)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
(2008/08/22)
カズオ・イシグロ

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 1月3日(土)

 カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を読んだ。オースターもそうだけれど、基本的にこういう小説がやっていることはただある物語をある語りかたで語るというただそれだけのことなのにどうしてこんなにおもしろいんだろうと思ってしまう。
 友達とお酒を飲んだ。もうおっさんだよおっさんといういかにもおっさんがしそうな会話をしたようなしなかったような気が、した。


 1月4日(日)

 早稲田松竹にいってフィリップ・グレーニング「大いなる沈黙へ」、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル「リヴァイアサン」を見た。りょうほうともねむっていたからではけっしてないはずだけれど、ドキュメンタリー映画を見るとフィクションの映画がいかにそこにうつしだされた人物たちがなにを思ってなにをしているのかがわかるようにつくられているかということがよくわかるような気がする。あるいは、その監督たちがいかにそこにうつしだされた人物が会話をしている場面ばかりをつくっているということがよくわかるような気がする。
「大いなる沈黙へ」では修道士たちはわたしたちが日常的に交わすような会話はほとんどしない。それは修道士たちがそういう会話を禁じられているからなのかもしれないけれど、ナレーションや解説やインタビューがいっさい存在しないこの映画を見ていてもそれはわからない。おなじようにわたしはこの映画を見て修道士たちが祈ったり食事をしたり雪のうえで遊んだり洋服をつくったり髪を(電気バリカンで!)剃ったりしていることはわかるけれど、わたしはそこにけっして不快じゃない「わからない」ということを思う。わたしは以前「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見たときに、この映画がわからないのは物語や設定が難解だからじゃない、彼らがなにを目的としてその行為をしているのかその理由をわかりやすいかたちで見ているひとにあたえるというありかたをいっさい拒絶しているからだ、というようなことを言ったように思う。わたしたちが作品を見たときに思う「わかりやすい」というのは「物語や設定が複雑ではない」ということだけを理由としているわけじゃなくて、あるいっていの流れを持った物語のその流れと登場人物たちの意志の流れがひとしい、ということのそのひとしさとおおきく関係しているように思う。だから、すくなくとも宗教を知らないわたしがこの映画を見ても彼らの行為や彼らの身体にいっていの「わからなさ」を抱いてしまうけれど、重要なのはそれが「不快ではない」ということだとわたしは思う。
 そして「リヴァイアサン」を見たときにもしもそこに不快を感じるのであれば、その不快さはたとえば「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見たときに感じたかもしれないその不快さととても近しいありかたをした不快さだと思う。それは機械的なつめたさをもって監督がそこにうつしだす対象を、あるいはその対象を見るわたしたちを拒絶している、という感覚なのかもしれないと思う。「わからない」のそのありかたで言えば「リヴァイアサン」の「わからなさ」というのは「大いなる沈黙へ」よりもずっとわたしたちを拒絶していて、この映画ではなにがうつしだされているのかわからないこともおおくて、たとえば船のうえの巨大な機械のかたまりがうつしだされてもわたしにはそれがいったいなんなのかわからない。重要なことは「わからない」とわたしたちが思ったときにそう思ったわたしたちが感じる「わからない」のありかたで、「リヴァイアサン」の「わからなさ」は徹底的ににんげん性を排除した無機質なかたまりとしてあるように思う。この映画は死んだ魚の死骸などにカメラをはりつけて撮られていて、だからにんげんの手では通常撮ることができないだろうアングルの映像がたくさんうつしだされている。たとえば、それは理論的には「ひとの手を経由していないありのままの風景としての自然」だととらえることもできるように思う。でもこの映画を見てわたしがわたしが好きだと思うありかたとしての「風景」が感じられただろうかと考えれば、やっぱりわたしは感じられてはいなかったと思う。


 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の神をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。
 ――村上春樹「ノルウェイの森」
 

 たとえばこの文章を読んでわたしたちがある特定の共通の風景を思いえがくことはできないけれど、それは村上春樹の文章がだめだからというわけじゃない。一般に文章は風景を緻密に再現できるように書かれているわけではないし、たとえどんなに書いてもわたしたちはつねにそれとはべつのものを想像したり、あるいはなにも想像しなかったりする。わたしはこの文章を美しいと思うけれど、そのときわたしはかならずしもこの文章が書きだしている風景が美しいと思っているわけじゃないように思う。この風景描写が美しい、たとえばわたしたちがそんなふうに言うことはたやすくことができてしまうはずで、わたしが問題にしたいのは、そのときわたしたちが美しいと思っているそれは文章それじたいなのか、それとも文章それじたいによってわたしのなかに想像された風景なのか、あるいは、文章それじたいによってわたしのなかに想像されなかった風景なのか、ということだと思う。


 現代人が本を読むときには、一ページの一つ一つの言葉を(いわんや綴りを)読みとることはほとんどなく、むしろ二十の字のうちからいい加減に五つくらいを拾って、この五つの字に属しているらしい意味を「推察」するのであるが、――同様に、われらがたとえば樹を見るときも、葉や枝や色や形を正確に完全に眺めることはない。われらにとっては、樹という漠然たる形を空想に描きだす方がやさしいのである。もっとも異常な体験の場合すら、われらは同じようなことをする。われらは体験の大部分を仮作する。そうして、「発見者」たらんと志すときのほかは、いかなる出来事をもわざわざ観察しようとは努めない。これによって見れば、われらは根本的にむかしから、――詐ることに慣れているのである。より上品に偽善的により快い表現を用いるならば、われらがみずから知るよりもはるかに芸術家なのである。――たとえば、活発な会話ををしながら、われらは相手の顔をとても肉眼が及ぶことのできないほどにはっきりと細かく見ることがあるが、これとても相手が述べる思想や自分が相手に喚び起したと信ずる思想がそう思わせるのである。この際の相手の顔の筋肉の動きや目の表情のこまやかさは、われらが想像して描き出したものなのである。相手はまったく別の表情をしていたか、または何の表情をもしていなかったのである。
――ニーチェ「善悪の彼岸」


 小説を読むとき、わたしたちはそこの書かれた文章をちがう文章を読んでいて、映画を見るとき、わたしたちはそこにうつしだされた映像を見ていて、音楽を聴くとき、わたしたちはそこに鳴っている音とはちがう音を聴いている。そしてときどきわたしたちはその文章やその映像やその音が直接的に表現しているものとはちがうものすら想像しないままにその表現にふれつづけているのかもしれないとときどき思う。わたしが重要だと思うことは、「そのときわたしたちが想像しなかったもの」ですらわたしたちは愛せてしまうことだと思う。だから、小説も映画も音楽も「そのときわたしたちが想像しなかったもの」をわたしたちが愛するための装置でしかないのかもしれない。でも、わたしはそれがかなしいことだとは思わない。




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